2021年のM1は「バカとボケと変人の戦い」だった
去年書いていた記事を読み直して、どんだけ漫才が好きなんだ自分と思い返しました。
漫才かどうかが重要なのではなく、M−1で勝てるネタなのかどうかという視点で、あれを選んで、それで勝った。それが事実なのだと思います。
M-1と漫才の乖離とか、進化の方向性が変わったとか、いろいろ言っている私なのですが、根本は、漫才が好きなんですね。
M-1というのは、漫才の新しいスタイルを発掘するイベントで、その年に新しい何かを提示した漫才師が勝つと考えられてきました。
2021年のM-1で新しいスタイルを提示したのは、ももだったと思います。
まもるとせめるという名前から入るというのも面白かったですが、ルッキズム(見た目)の固定概念を言葉にして、ズレを笑いにするというやり方の繰り返しという真似やすい構造を持ったスタイルを提示しました。
「なんとか顔」というパワーワードで、高校生が真似してそうですよね。
これは新しいスタイルの提示でした。それだけに、松本人志が「3年後優勝顔」と言ったのも頷けます。
しかし、それはかつてのM-1であり、その頂点がミルクボーイの漫才でした。
そこから逸脱したのがマジカルラブリーであり、その先に今年起きたのが、錦鯉の爆発だったのではないでしょうか。
去年書いたように、M-1では漫才としての構造以上に重要なのがイリュージョンなのです。
「イリュージョン」というのは、元々は立川談志が落語について持ち出した言葉からきているわけで、手品とかのことではないのですが、要は、なんだかわからないけどおかしい状態を作ることなんですよね。
笑いというのは共同幻想に基づいています。
常識とか共通認識がないと、ボケが成立しないからです。
ボケが提示した言葉を、世の中の常識の中に置くとおかしいものであることを説明することを端的に提示するのがツッコミの役割です。
この場面で、それをするのは違うよね、という共通認識があるから、それをすることによって起きる緊張を緩和するために「笑う」わけです。
笑いとは「緊張の緩和」であると看破したのは、故・桂枝雀な訳ですが、この簡潔な言葉が示している深淵というのが、笑いの難しさでもあります。
この論文では、「緊張の緩和」というのは落語のさげにおいて正しいと規定しています。
ただ、緊張を与える、もしくは、ある種の恐怖や違和感を与えて、それを共通認識の中での位置付けに解釈し直すことで緩和し、それを聞いて安心すると、人は笑うというのが、漫才における笑いではないかと思います。
その緊張を与える要素が、「バカとボケと変人」だったのが今回のM-1でした。
バカが錦鯉で、ボケがインディアンスで、変人がオズワルドですね。
変人という意味では、ランジャタイもハライチも変な人が変なことをやっているのを現実との間で普通の人が振り回されるという構造のネタでした。
ボケが言う無茶苦茶を現実と擦り合わせられなくなるツッコミというのが今年の特徴で、ボケを否定しきれなくなるネタが増えているのは、現実も無茶苦茶だからかもしれません。
そこにあるのは、「もういいわ」という終わり方なのですが、錦鯉が圧巻だったのは、「もういいわ」ですらない、ゆっくりと床に横たえるというバカの捩じ伏せ方を見せたことでした。
あれもまた「しゃべくり漫才」というものを想定していると、あまりにも荒唐無稽で、バカが大騒ぎしているだけのうるさいネタです。だけど、可笑しい。M-1とは、4分間でどれだけ笑いを生むかというコンテストなわけですから、一番笑ったネタが優勝するという意味で、正しい選択だったと思います。
でも、それはM-1だから。
お正月には演芸番組が多いので、錦鯉を見る機会も多いでしょう。そして、去年のマジカルラブリー同様に、これのどこが面白いのかと言っている年寄りが多いだろうと思います。
でもそれは、笑いの背景にある共通認識の違いなのではないかと。
笑われているのではなく笑わせているんだとか、言葉の応酬で巧みなトークが欲しいんだとか、そういうことではなく、ただ笑いたい人がいる時代の中で、何が笑いを生むのかを追求した戦い。それがM-1です。
そのM-1を頂点に置く、笑いの世界があり、それとは無縁の笑いの世界(浅草演芸場とか)があるということなのかもしれません。