見出し画像

カラオケで断片化された歌うという行為が、「流し」で再びコミュニケーションの主役になるのかもしれない

タイトルは煽りです(笑)。

カラオケお好きですか? お好きな方多いですよね。でも、それは「歌う」ことであって、「他人のカラオケで歌っているのを聞くのが好き」って人はいませんよね。しかも、他人が歌っている時に、自分の曲を探すのに懸命で聞いてなかったりしますよね。

カラオケは、歌の伴奏をしてくれるけど、歌をサポートしてはくれない。それどころか最近は採点も出たりして、カラオケは歌うという行為で人と人を断片化しているように思えるんです。

もともと、歌は、人と人が繋がるためのものだったはずなんです。さらに言えば、歌はコミュニケーションの基本であり、原点で、言葉は歌から生まれたのかもしれないという研究もあります。

私が若い頃、銀座のクラブには、ピアノを弾く専属の紳士がいました。

カラオケに駆逐されてしまうのですが、彼らはピアノでBGMとなる音楽を奏でたり、「歌伴(歌の伴奏)」をしてくれたのです。

この「歌伴」の能力というのがすごくて、ちょっと聞いただけで、歌う人のキーを把握し、どんな曲もそのキーでアレンジして引いてしまうのです。だから、歌う人は自分のキーで歌えるから、高音が高くてでないとか、低いところが出ないとかいうようなことになりにくく、実に気持ちよく歌えるわけです。

これがどれだけ凄いことかというと、大抵の素人は自分のキーを知りません。しかもカラオケは、原曲通りではなく、大抵Aをキーにしてアレンジされています。これがさらに混迷を深めていて、聞いたことがない音で知っているつもりの曲が始まることになり、結局、素人はその曲を演奏通りに歌えるかどうか、わからないままカラオケを始めて、サビで苦しくなったりしがちなのです。

ところが歌伴は、それを解消してくれます。知っている曲を歌えそうなキーで伴奏してくれるからです。

今では、この歌伴がいる店というのは銀座でも皆無になっています。また、いくつか音楽を中心にしたバーなどでお客さんが歌うときにピアノを弾いてくれる人がいたとしても、ちゃんとした歌伴ができる人というのは実は案外少ないものなのです。

長い前振りでしたが、そこに「流し」の需要があるなあと思ったのです。

昭和の流しは、ギター1本でお客さんのリクエストに従って歌うのが仕事でした。その頃のお客さんは、自ら歌う人は少なかったからです。人前で歌うなんて恥ずかしいことという社会通念もありましたし、実際、聞く方が好きな人が多かったはずです。

しかし、平成の流しは、リクエストに答えるだけでは成立しないでしょう。今やカラオケで歌うことに慣れたお客さんの歌伴も求められるでしょう。それに応えないと流しとして客の間に立てないのではないでしょうか。

でも、それが流しが今再び成立する要素なのではないかと思うのです。

学生の時の宴会でも、ギターを弾ける人が一人いると盛り上がりました。その場でみんなが知っている歌をジャカジャカするのに合わせて大声で合唱になるのがカタルシスになるんですよね。

昭和の流しが、サブちゃんや竜鉄也や渥美二郎、という演歌の世界ならば、平成の流しは、ゆずとかミスチルとかコブクロとか、ギターとボーカルのセッションのJPOPではないでしょうか。

そして、聞くものから歌うものになった流しの歌を、みんなで合唱してカタルシスを得ることで、その場のコミュニケーションが活性化する。

そういうコミュニケーションの媒介になりうる流しという存在が、今、注目なのではないかなと思うわけです。

そんな存在が、四元さんだったな、と先日のイベントを思い出しているところです。

この記事に触発されて書いてみました。

四元さんって誰?という方は、こちらをどうぞ


サポートの意味や意図がまだわかってない感じがありますが、サポートしていただくと、きっと、また次を頑張るだろうと思います。