アニメの鍵第20回(最終回)/アニメージュ2010年6月号
「ニュータイプ」で連載していた時評「アニメの門」が終わり、2008年8月から今度は「アニメージュ」で時評「アニメの鍵」が始まった。「アニメの鍵」のタイトルは、担当編集氏がつけたもの。「ゲッターロボ號」がOVAでは「ネオゲッターロボ」になっているようなものである。こちらは全20回で終了となり、「アニメの門」とあわせて『チャンネルはいつもアニメ』(NTT出版)にまとめられることになった。
(本文)
アニメ時評をどういうつもりで書いてきたか。最終回の今回はそこについて少し記しすことにする。
アニメについて語る、ということをする時にまず思い出すエピソードがある。高校時代のHくんにまつわる思い出だ。
当時、Hくんは「自分にとって最高の映画は『愛・旅立ち』だ」と力説していた。その理由は、当時人気絶頂で、Hくんが熱烈なファンであった中森明菜の主演作(近藤真彦とW主演)だから。
『愛・旅立ち』は85年の公開。監督は舛田利雄。どういう映画かといえば、80年代には馴染まないアナクロな難病モノで、「最高」と呼べるかどうかとなると疑問符がつく。当時はHくんの評価をずいぶんと偏ったものだと思った。でも、今はそれを「偏っている」と思った自分のほうが、偏っていたのではないかと思っている。
どうして自分のほうが偏っているのか。
先日『もっと、狐の書評』(山村修、ちくま文庫)を読んだところ、そんな気持ちをすっきりと書いてくれている一文に出会った。
同書は長年夕刊紙で匿名書評を手がけた<狐>の原稿をまとめたもので、その中に「書評者に『名前』なんか要るでしょうか」という一文がある。これは、やはり<風>の名で匿名書評を手がけていた百目鬼恭三郎の姿勢を取り上げて、自らのレビュアーとしてのスタンスを語った原稿だ。
引用してみる。
「読む前から、すでに書く方向は決まっているのです。すなわち、自分の教養の道すじに近い著作家(略)の本なら可。道すじからはずれる著作家の本は、すべてとはいわないまでも、不可。
とくに『風』だけをあげつらうつもりはないのです。匿名にせよ記名にせよ、ここに書評家がはまりやすい陥穽が、暗くて陰湿な穴があると思うのです。
この穴のなかで書かれる書評は、けっして読者に向かって本を差しだそうとするものではありません。逆に、本を閉ざそうとするものです。本を閉ざして、なにを語るのかといえば、自分のことです。自分の教養、眼力のことです。」
つまりHくんの、「中森明菜主演=最高」という評価を「偏っている」と感じるというのは、こちらの“教養の道すじ”で『愛・ 旅立ち』のいろんな楽しみ方を閉じることに繋がってしまう。冷静に考えれば、トップアイドルの中森明菜を主演に据えている時点で、Hくんのような見方は作品に既に織り込まれているのだ。むしろ『愛・旅立ち』の楽しみ方としては正統といっても過言ではない。
そんな経験があったこともあり、当欄は基本的に作品の「出来がいい/悪い」ということを中心的な話題として論じてこなかった。『愛・旅立ち』の例を見てもわかるように「いい/悪い」の境界というのは非常に曖昧だし、先述の通り作品の評価軸は一つではない。基本的に作品はどのように楽しんでもいいはずなのだ。それこそが視聴者(観客)の数少ない特権の一つなのだから。
そもそも「できが悪い」作品のどこが悪いのかを考えるのは決して生産的ではない。自分が制作者ならともかく、あれこれ言うのは(楽しいけれど)それは床屋政談にも似て実作とはまったく無縁のことだ。だいたいあれこれと不備な点を指摘したところで、完成した作品は1ミリもその姿を変えることはない。
ではそういう状況を含めて、アニメを開いたものとして時評の俎上に載せるにはどうすればいいか。
まず確認する必要があるのは、<狐>が言うところの意味で「アニメを開く」とは、単に他ジャンルの作品との回路を開くことではない。たとえ他ジャンルと回路が繋がっても、「狭い教養の道すじ」で繋がっているのでは、この場合の「開く」にはならない。
重要なのは、作品には多様な味わい方があるという前提と、そこにもう一つ見方を付け加えるという姿勢だ。特定の評価軸で作品を裁いていくのではなく、自分が語るに価する要素があると思ったら、その要素をフックにして、その作品がどのような場所に立っているかを明らかにしていくこと。それこそが、作品を観客に開いていくことに通じるはずだ。
この時に必要になるのが、立ち位置を決めるためのベースとなる「地図」だ。だから当欄ではできうる限り毎回、そういう地図に相当する「切り口」を用意するようにつとめた。それは作品の語り口についての考察である場合もあったし、テレビアニメの在り方という産業論寄りのこともあった。いずれにせよ、話題となっているアニメ以外の作品でもその「地図=切り口」を使って作品を再鑑賞できるようなものを用意しようとしたつもりだ。
先述の通り、視聴者というのはアニメを見ることしかできない。だから、どう楽しむかがこそが重要になる。だからこそそうした「地図=切り口」を増やすことで、受け止められる作品が増えると思うのだ。そういう作品が増えるということは、まだ見ぬ作品が視聴者に開かれることであるし、アニメという表現自体が開かれることでもあると思う。
このアニメを開いていくという行為は視聴者にしかできない。少々乱暴な言い方をするなら制作者は、自らの信じた道に従って作品を制作する。それ故に、制作者はほかの制作者の作品について、それほど寛容にはなれない。時に相反するような価値観で作られた作品たちを、両方自由に楽しむことができるのは、実は視聴者の特権なのだ。
当欄がアニメ時評を書く時に考えていたのは、そんな視聴者の楽しみをできるだけ豊かにできる原稿を書きたいということだった。
本誌での連載は今回で20回となる当欄だが、別雑誌で行っていた前身にあたる『アニメの門』の開始から数えて足かけ6年の連載となった。幸いなことに近いうちに単行本としてまとめることができそうである。その時になったら改めてネットなどで案内するが、その時、改めて当欄の狙いがどこまで達成できたかは読者の皆さんの目線で確認していただければうれしい。
これまでの愛読ありがとうございました。
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