【原文】富士下山ガイド「村山道 富士宮口五合目~高鉢駐車場」
富士山登山は平安時代の末期の「登拝(とはい)」と呼ばれる信仰形態から始まった。それ以前の信仰は「遥拝(ようはい)」と呼ばれ、遠くから富士山を眺め拝むという形態で行われていた。噴火活動が終息した平安時代の末期に富士山修験道の開祖である末代上人(まつだいしょうにん)によって初めて登拝が行われた。この際に登ったとされる道こそが今回のルート「村山道」とされ、富士山最古の登山道として知られる富士山修験の聖地である。末代上人はその後、村山浅間神社を建立し、即身仏となって大棟梁権現(高根総鎮守)と号して富士山の守護神になったと伝えられる。
今回のスタート地点は富士宮口六合目。山小屋「雲海荘」の手前から谷(実際は火口)の左岸に薄いトレースがある。礫地を進むとまもなく森林帯に入る。標高2500m、森林限界のすぐ下であるこの地点ではカラマツ、ミヤマヤナギ、ミヤマハンノキなどが強い風に成長を阻害され、背丈が低いままで環境適応している。この辺りは周囲では最もコケモモの分布が多く、夏には薄桃色のかわいらしい花を咲かせ、晩秋には小指の爪半分ほどの真っ赤な実を付ける。テン等の小動物から大型哺乳類のツキノワグマまでがこの実が熟す秋が来るのを待ちわびている。
木々は見る見るうちに背丈を伸ばし、気が付くと亜高山の森林帯へと入っている。森を主に構成するのはカラマツとシラビソだ。樹林帯のトレースを250m程つづら折りに下って行くと左手側に平場が現れる。ここは村山道三合目小屋跡。明治35年(1902年)に撮影された写真によると岩室であることがわかる。周囲に木々は無かったため、散乱する溶岩石を積み上げて建てられた小屋であった。つまり、当時の森林限界は今よりも200m以上低かったと想像される。まっすぐ伸びる樹齢数十年から100年程度のシラビソやカラマツ林の中に、太く大きく歪曲したダケカンバの大木が確認できる。紫外線に強いパイニア植物であるダケカンバは、この周囲にまだ樹木がまばらだった時代に優勢種として生長していたと思われ、大木として現在存在するものは環境の変化に耐え、生き延びた個体なのだろう。当時の厳しい環境を生き抜いた正に生き証人だ。岩室の写真や、こうした自然の状況を鑑みると、この122年の間に植物たちは200mの富士登山に成功したということになる。
さらに100m程下ると宝永遊歩道と交差する。この交差地点の左手にある平場が二合目小屋跡で、この小屋跡の東の脇を通り抜けると、いよいよ村山登山道らしさが見えてくる。ここから先はエスケープルートが無いため、充分な計画と準備をしてから臨みたい。
山岳仏教の衰退とともに、現在ではあまり利用されることのないこの道は、足元にカラマツの落ち葉が堆積し柔らかく、最古の登山道の”らしさ”を足の裏から感じ取ることが出来る。木々の隙間を抜けるようにつづら折りを繰り返しながら細い一本道が続く。鬱蒼とした森の足元に散在する古い噴石は長い年月をかけて苔むし、種床となって小さな野生ラン等を育む。長年盗掘被害にあってきた野生ランが、ここ村山道でひっそりと生命を繋いでいる姿に嬉しさを感じずにはいられない。小さな命の連鎖を優しく見守ることのできる人にだけ通っていただきたいと心の中で強く思う。
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