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「はあ、面白いかどうかということだけが最上級に大事でそれ以外のことは本気でどうでもよかったからこんな映画が作れてしまうんですね…」最近見た映画の話
キッズ・リターン
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少年期の万能感が失われていく過程を、気まずくなるぐらいつぶさに凝視するような映画なのに「これで終わったわけじゃないですよね/まだはじまってもいねえよ」で物語を締めくくる映画。
見始めてまず印象に残るのが、映像の色彩の美しさ。
たぶん公開当時は別に何も特別じゃない普通の映像だったのかな、今見るとレトロに感じるし、今の映像加工の技術でこの感じを出そうとすると「あえてやってる」感のあざとさが出てしまうだろうから、いつのまにか失われた過去の色彩。過去の日々が二度と当時の鮮やかさでは戻ってこないのに似てる。
二人の関係性が恋に見えた。友達というよりもその方がなんだかしっくりきた。
色々時代を感じるところはあるけど、制服姿の高校生に酒出す中華料理屋、今なら絶対にありえないよな~。と見る側誰もが強く感じるであろうこと自体がたぶん一番時代の変化だ。
ちなみにキッズ・リターンが公開されたのは1996年、「20歳未満の者の飲酒の禁止に関する法律」の取締り強化のための法改正が行われたのが1999年、2000年、2001年だそう。
少年期の万能感を失ってしまった人間に何が出来るかって「まだはじまってもいねえよ」と意地を張り続けることぐらいなんじゃないだろうか。
希望でも絶望でもなく、これからも続いて行く現実に対するファイティングポーズをただただ崩していないというだけのことの示唆。
首
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キッズ・リターンを見た時も思ったけど、北野武監督作品の印象は、「徹底した""面白""以外への興味のなさ」「""面白""以外の観点から人間・行動・事象に対してのジャッジをしない」
が強くて、例えば、キッズ・リターンでいえば、「友達なのか恋愛なのか?」「インモラルな人間は不幸になるのかならないのか?」「どの大人を信じるべきなのか?あるいは大人のことは誰も信じるべきではないのか?」「未来は希望か絶望か?」あらゆる二択に対して何も結論を出さないしジャッジもしない印象だったけど、それに対して「首」はいつも通り「面白」を最重要視しつつも、徹頭徹尾結論出しまくり、ジャッジしまくり(そしてそこから生まれる面白)の映画なところが意外だった。
つまり、ハイ!!恋愛だし性愛だし男から得られる承認だけが重要だから女のことは眼中にない!!そんで権力闘争ってやっぱ本当にしょうもないしくだらねえですね~~
…という。
これまで見た作品から「あんまりそこは言及したくない(する気がない)のかな」と思ってた部分をあまりにもさっぱりすっぱりと斬ってて呆気にとられる。
はあ、本当に面白いかどうかということだけが最上級に大事でそれ以外のプライドとか権威性とか本気でどうでもよかったからこんな映画が作れてしまうんですね…
ということを感じる映画だった。
そこから、年齢的な""終わりの日""を見据える人の眼差しを感じたり。
実はここまでの全作品が全部壮大なフリで、ここからあらゆる種類のオチをやりまくれちゃう、ということなのかも。
そう考えると70代や80代になってゆくこともぜんぜん悪くないね。「ここまでのぜ~んぶが、この!振りでした!!!」って言いたい放題期ってことじゃん。最高。だし、逆に言えば若い時って全部それまでのフリでしかないのだから、何やったって良いってことだ。それも最高。
あと3DCGを使えば取った「首」をもっとリアルに描くことって全然できたはずと思うけど、あえて少しチープな作り物感ありありの生首だったのって敢えてなんじゃないかな。「しょうもなさ」「くだらなさ」「そんなもののために」の暗喩というか。
武将の首を取る文化は現代にはもうないものだけど、でも今でも様々に置き換えられるから。富、名声、社会的地位、他者からの承認など。
北野武と「面白い」
何故芸人出身の経歴の中で急にちゃんと映画が撮れるのか??がずっとよくわかってなかったんだけど、それまで舞台やテレビでの実践を伴いながら「何が面白いのか」「面白いとは何か」「人が笑う時、その内面では一体何が起こっているのか」をつぶさに観察して掘り下げては体系化することを続けてきたであろう人が、トークや漫才やコントでやれる「面白い」とはまた違う、映画というフィクション世界でしかやれない「面白い」をやろうとしたらそれは面白いに決まってるだろうな…、と納得してしまった。
冷酷なまでに客観的なまなざしで見つめているのに冷笑的ではないと感じるのは、面白さを追求する姿勢に異常な熱量があるからと言えば良い言い方、悪く言えば面白の奴隷になれているからじゃないだろうか。奴隷というよりヤクザか。面白のヤクザ。
「面白いか面白くないか以外のことは大事じゃない」ということ。
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