血すじと背中

僕はそこそこ保守的だなーと自分で思っています。両親は元公務員で親族関係を見渡すとそういった場所に勤務している人が多く、僕自身も公務員さんとお仕事しています。この前の書きましたが、だからと言って国粋主義とかというわけでも無く、「みんながイイ感じになればイイ」と思っています。
まあ、その「イイ感じ」の塩梅が難しんでしょうけどね。

そして、僕は仕事以外でなんやかんやと地域の人たちとワチャワチャしています。僕の父は退職後、自治会やコミュニティーセンター、県の地方事務所のお手伝いとかワチャワチャやっています。別に父親を真似たわけでも無いんですけど、自分が思うコト、望むコトをやっているといつの間にやらワチャワチャやっていて、気が付くと父親と同じようになってしまっているなーと思うわけです。

それってどういうことなんでしょうか?

血統・血すじ

よく、お医者しゃんはお医者さんの血、農家さんは農家さんの血
良くも悪くも血統の話ってあると思います。
確かにDNAとしての血統・血すじってあると思いますし、自分の親や子供を見るとある程度性格とか似通っているなと思います。でもそれだけなんでしょうか?僕はそう思いません。

背中

僕は父親や母親の背中を見て育ってきたし、僕自身も子供には僕の背中を見せたいなと思っています。血すじだけではない、その人の生き様こそが周りの人の信頼を生み、影響を与え、人生の一部としてトレースされると思います。だから、僕は父親と同じような職種に付き(ほぼ親の七光りですが)、いつの間にやら地域でワチャワチャしている。

少しだけ、天皇の話をします。シンボルとは人の心の中に在るもの。僕たち日本人の心の中に在るもの。僕たちが願い、そして在りたいと思う心をトレースするもの。おそらく、それは血すじだけで信頼に応えられるものでもないように思えます。その人の生き様をトレースするからこそ僕たちは影響を受けるし、反対に影響を与える。そんな関係性の中でシンボルがシンボルとして信頼されるのだと思います。
男系、女系、いろいろあると思います。それはそれで大切なことだし、その脈々と繋がってきた歴史に思いを馳せた時、それを無下には出来ません。だからと言ってそれに固執するあまり、僕たちが”どうありたいか”が抜け落ちては本末転倒のように思えます。
どちらがイイかではなく、”どうありたいか?”
それを日々問い続けることが、シンボルをシンボルたらしめると僕は思っています。

大切なの血すじと背中だと僕は思います。

今日は少し長くなりました・・・
全部で1073文字でした。(タイトル除く)

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