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「安楽死を遂げるまで」を読んで

年末年始に読んだ本

【感じた事】
・人は「個」の尊厳をどこまで尊重できるのか?
・モノがあふれ時間に追われる世の中で「判断」が軽くなっていないのか?
・「希望」と「絶望」は表裏一体。「死」と「生」も表裏一体
・「死」の選択肢を作ることで「生」に対する希望が芽生える
・「個」の権利には「社会」に対する責任が存在する

【書いてあったこと】
1.法的な整備状況
スイスは自殺幇助、オランダは積極的安楽死、自殺幇助、ベルギーは積極的安楽死が認められているが、ドイツ、フランス、スペインなどでは認められておらず、キリスト教世界の中でも積極的安楽死及び自殺幇助(以下、安楽死と呼ぶ)に関して価値観は分れている。(ただ、スイスは合法化したわけではない)
アメリカではポートランドがあるオレゴン州など一部の州で尊厳死法が成立している。
日本では法的な整備がされていないが、裁判事例により安楽死に対する線引きがされている。

各国が法整備を行うきっかけとして安楽死に関する事件がきっかけとなり社会的な議論に発展し、個を尊重する国柄では整備が進んでいった。その際、必ずあったのは「当事者の声」。当事者が安楽死を望み、それに社会の制度が追いついていないギャップが社会的議論を産み、法整備に導いている。翻って日本の場合は、当事者の声はほとんどなく。ほぼ、臨時状態の患者の苦しみを取り除いたり、家族の訴えにより死期を早めた場合でしか争点になっていなく、「個」についての議論がされていないため、手続き論で終わってしまっているように思える。

2.安楽死の条件(横浜地裁1995)
①耐え難い肉体的苦痛
②死が避けられず、その死期が迫っている
③苦痛を除くための方法を尽くし、代替手段がない
④患者本人が安楽死を望む意思を明らかにしている
安楽死が行われている国でも概ね基準は同じであるが、精神的苦痛も含めているケースもある。

3.安楽死の区分
積極的安楽死:医師が希望者に致死量の薬を投薬し死に至らしめる
自殺幇助:医師により致死量の薬を処方され、希望者本人の手により薬を摂取する
消極的安楽死:延命治療の中止
セデーション:苦痛を緩和するため鎮痛剤の投与により意識レベルを下げる処置

4.取り上げられた事例
本で取り上げられたケースでは、安楽死を求める人には2タイプあったように見える。
①癌など肉体的な苦痛が伴い、死が近づいている人で闘病人生を送るより死を選ぶケース
②精神的な病気など先天的な疾患で日々の生活に絶望しおと死を選ぶケース
①の場合は成功者に多く、人生にある程度の達成感があり美しい世界のまま死に向かいたいという希望に思え、②の場合は人生に成功が望めず生きていくことに目的を感じず死に向かいたいという希望に思える。①の場合は家族との絆は希薄に見え「個」が見え隠れする反面、②の場合は家族との絆の中で葛藤を繰り返しながら死を選んだように見える。

5.心に留まった言葉
・人が自分の生死を決定することは、ヒューマンライツ(人権)の枠に入るとされているから
・私は回復する見込みのない病を抱えるからです。もはや生き続けたいと思えない人生の質(QOL)まで、MS(多発性硬化症)が進展してしまいました。今はまだ、歩くこと、飲み込むこと、一人旅に出ること、そして人生を終えることができるのです。
・安楽死という医療行為が、患者を痛みから逃れされるためにあるのだとすれば、なぜ、アフリカやアジアの途上国では行われないのでしょうか。
・妊娠中絶だって合法化されたことで恩恵を受けた女性は多いはず。法を利用するかしないかは、自分が決めればいいと思うけど、安楽死に関しては法律が存在しない
・(残された家族に対し)期待することはありません。希望を抱いて生きてほしいと思います。
・(自殺幇助により死んだ弟を持つ兄が同じ立場にたったら)俺は安楽死を選ぶ。俺はいいんだよ。だけど、ダメなんだ。家族だけはダメなんだよ!

【感想】
とりあえず、書き綴ってみたけど。いまいちピンとこない。自分事になれない。自分がいつ死ぬかわからない。少なくとも子供が大きくなるまでは生きていたい。というか、生きなければならない。人は生きたいと思って生きているのか?死を目前にして初めて生きたいを思うのではないか。生きたいと思って生きている人なんてそんなにいないのではないかと思う。大きくなるにつれ、社会的な繋がり(しがらみとも言う?)ができ、その繋がりの中で生き、生かされ、生きていることを感じることなく生きているのではないのか。生きている証に何かを残したいと思うが、何なのかは明確にわからない。ただ、子供が出来たことで生きることに対し少なくともポジティブな方向になれたとは感じる。
家族が安楽死を遂げたいと言ったらどうするか?嫁、子供、両親、兄弟、みんな健康で問題なく暮らせている。リアリティがなさ過ぎて考えることが出来ない。
僕にとって安楽死が是か非か?「判断」出来る所まで考えが至っていない。

ただ、「個」の判断と尊重することは「個」に負担をかけすぎて「個」が耐えきれなくなり、安易に「安楽死」を選んでしまう恐れもあるので、「安楽死」を美談として終わらすだけではよくないなーと思う。

医師は「個」を尊重し過ぎていないか?説明責任(アカウンタビリティ)は誰のためにしているのか?「個」に受け止める力がないのであれば、説明しないのも説明責任だと思う。医師には患者と向き合い、生かすための責任を持っている。「説明する」ことが責任ではないと思う。でも、説明しないことで自分ないし組織が不利益を被るのが怖いから説明する。それは説明責任ではない。昔、嫁がある病院で検査を受けた時に初対面の医師が簡単に命に係わることを嫁に言った。「信頼関係」も無い医師が簡単に嫁の命について確立を言った。それは説明責任では無い。自分という「個」が暴走しているだけじゃないのか?と思う。医師にも「個」があるのは理解できる。でも、それと同時に患者の命に対する「責任」も存在する。

「個」の権利の裏側には「社会」の責任も存在するわけで、権利の美しさに惑わされず責任も感じながら、「判断」をしていく人になりたいと思う。

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