藤尾潔著 『大震災迷言録』前半部分


  ユーモア震災記

田辺聖子  

 阪神大震災では、自然の圧倒的な暴威にもかかわらず、そのかげで家族が家族を、人が人を庇かばいあった崇高な愛のエピソードをいくつも聞くことができた。悲惨な話も多いが、大自然の力の前に、微細で無力な存在であるはずの人間が、勇気と愛で立ち向かった感動的な話も少なからずあった。

 震災から一年たち、二年たち……そろそろ、出てきてもいい、いや、出るはずという本が出た。それが本書である。

 実は、被災直後から本書にある、家財資産と「引きかえに、一、二個ネタができた」というめざましい人がいたのである。私の友人の話では、被災後いくばくもなく知人にばったり遭い、

〈あんたトコ、どうやった〉

 と聞くと、

〈ウチ? 貴乃花や〉

 というではないか。全勝に全焼を引っかけているのである。二人で笑い合って別れたというが、私の友人は、そのネタを誰かれなしには、その当時はしゃべれなんだ、という。震災直後とて、人によっては不謹慎なと怒る人もいようし、この時節に何をいうてるのや、と交情に間隙かんげきを生じることもあろうかと恐れた、というのであった。しかし、右の知人も、関西人らしくフテブテしいではないか。

 どうしようもない運命は駄洒落で笑わな

(しゃーないやん)

 という不逞ふていな居直りがやけくその明るさを与えている。︱︱そして、本書はこのたぐいの被災地のユーモアを拾いつつ、読者を哄笑に捲まきこみつつ、みごとに趣向を変えた「震災記」になっている。

 私は本書を読みながら、幾度も取りはずして笑ってしまった。いや、むろん被災者の苦難に同情共感しつつも、現実の柵しがらみをするすると通りぬけ、自在に泳ぎまわるメダカのようなユーモアのむれに笑わないではいられぬのである。人間あるところユーモアあり、されば何百年に一度というような天変地異に、その種のネタがふきこぼれないはずはない。

 避難所のリーダーの生態、ボランティアの考現学、各宗教団体それぞれの特色など、もう、笑ってしまう。

 おかしいネタも、本当は処理次第であって、著者の淡白でさりげない筆致、卓抜したバランス感覚が、それをみごとにさばく。

 ユーモアのうしろの暖かい人間洞察力、そして〈おかしがり精神〉が読者の心を微温湯ぬるまゆのようにほぐす。ひとすじ縄でいかぬ関西人のユーモア感覚を抉えぐって間然するところがないが、読んでいるうちに、やさしい葉擦はずれの音を聞くように、心はいつか和む。とびきりおかしい本だけど、いつか励まされているのに気付くのである。

  まえがき
 本書は、一九九五年一月十七日に起きた阪神大震災とその後の被災地の模様を取材したものである。

 そして十六年後、二〇一一年三月十一日に、東日本大震災が起きた。

 阪神大震災の時と比べて、政府、マスコミの対応、あるいはボランティアの様子は、どれだけ進歩していたのか。それは本書を読んで、読者諸氏に判断してもらいたい。

 神戸の地震の切実な被災者は、直後のひどかったもろもろの記憶など、もう忘れかけている。よしんば、憶おぼえていることがあっても、ほとんど口にしない。

 距離とともに、時とともに現地の被災者も含めた人が「大震災」から部外者になっていくのは、ある意味では自然なことだが、せっかくあれだけの損害を差し出したのに、そこからいくつかの知恵や心づもり、「ああいう時にはこうするといいんだな」というような断片を得ておかないのは、単純に「もったいない」と思うのである。

 同時に、部外者の人に、「一瞬でも思い返してください」とお願いするうえでの礼儀として「関西的なユーモア」は必要、そして不可欠であると考えた。

 筆者は、神戸市東灘ひがしなだ区の出身である。阪神大震災の時は、小、中、高と通っていた学校は全部避難所になり、友人をはじめ多くを失った。それと引き換えに、ここに紹介するようなほんとうの被災者たちの「ネタ」に触れると同時に「震災を笑う」資格を得たように思う。

 ある話を聞いて、私は思わず笑ってしまったことがある。通常なら、「不謹慎だ」と叱られてしまいそうな、被災地でのブラックジョークである。

 その話の言霊ことだまのようなものに憑依ひょういされたというのに近い。「今、自分がこれを形にしなかったら消えてしまう」と思うと、一文いちぶんの形に焼きつけるまでは、何をやっていても落ち着かず、頭のすみに残りつづけていた。

 当時、確認をとる作業が十分にできない点を補うために筆者がとった方法論は、できるだけたくさんの関係者に原稿を渡し、「実情とちがうのではないか」「腑に落ちない」というポイントを指摘してもらい、それを修正、しばしば全面削除することだった。

 聞き書きという作業には、どうしても話をドラマチックに少しずつ変えてしまう演出や物語化、活字を含めた他の人の言うことをさも自分のことのように話してしまう傾向が混入せざるをえない。この混入、物語化傾向をあるていど覚悟するかわり、この本は、それでも多くの関係者から「そうだった」というリアクションをもらえた小文だけで構成した。こうすることによって、一つ一つは伝聞的、二次データの要素が入っても、全体としては「事実を伝える」という意味でのノンフィクションになりえた、と思っている。

二〇一二年三月      藤尾 潔 

1 男と女と震災と 1 男と女と震災と

【人生のダイヤ】

 阪急電鉄神戸線をボーダーに、そこより北の地域に住んでいた人は、「えらい激しい地震やった」ことはわかっていても、べつに周りの家も大丈夫なうえ、テレビも映らないため、「大震災」であることがわからず、七時ごろに出勤しようと家を出た人も少なくなかった。

 K君もその一人で、何の変哲もない紺色の背広に髪を整え、茶色の革のサラリーマンバッグ一つを持って阪急岡本駅に行き、駅員に、

「ダイヤそうとう遅れますよね?」

 とたずねた。

 するとその駅員にすかさず、

「きみ、ダイヤどころやない。みんな人生のダイヤ狂ったんや」

 と返されたという。

【話半分】

1 阪神高速

2 三宮さんのみやの新聞会館(東京でいえば有楽町マリオンのようなもの)

3 大阪の通天閣

4 奈良の大仏

 がこけた、という噂が震災の直後に流布るふしていた。四分の二は的中していた。

【人とネズミの山椒魚】

 灘なだ区の木造二階建て下宿が倒壊して、半日閉じ込められていた神戸大生・N君は、埋まって五時間ほど経過したとき、頭のほうでネズミがチュウと力なく鳴くのが聞こえたそうである。

 N君にはそれは励ましにも、また、

「ネズミさえ這い出ることができないゆうことか」

 という絶望のサインにも聞こえた。

【楽観的思いやり】

 神戸在住のDさんはテレビを見ていて地震に直撃された。

 床に落ちたテレビから、

「落ち着くようにお願いします」

 という音声だけが聞こえ、画面は真っ暗なのを見て、

「スタジオの照明が壊れたんかなあ。テレビ局はたいへんや」

 との感想を持った。

 実際のところ壊れていたのは自分の家のテレビのほうであった。

【空港本線料金所】

 ゲートを抜けて間もない地点で倒壊が起こっていたにもかかわらず、入口料金所は地震発生直後もしっかり六百円の料金を取りつづけた。

【ブルーライト・タカラヅカ】

 宝塚たからづかの木造二階建てのアパートに一人で暮らすH君は、揺れが収まった真っ暗な室内で懐中電灯もないことに気づき、途方に暮れた。

 アイドルおたくでコンサートにもよく出かけるH君は、とっさに取っておいたイベント用の蛍光ペンライトを折って発光させた。

 自分の思いつきに我ながら感心したH君だったが、幻想的なブルーのライトに照らし出されたアパートの中は、壁はほとんどひびだらけ、床は傾いていて、H君はなす術もなくまた布団にもぐりこんだ。

【決意】

 中央区の開業医。Yさんは揺れが収まった室内で時計を見て、

「まだ六時前か。診察に差し支えるから、こらなんとしてももう一回眠らなあかんわ」

 と、決意し、無理にでも眠ろうとしつづけた。

【誰にも言えない】

 東灘区に住む独身の若手サラリーマン・K君は熱帯魚のグッピーのマニアである。ただ飼うだけでは飽き足らないK君は、ブルーのラインが異なる種類をかけあわせ、オリジナルのスペシャルグッピーをつくろうと努力している。

 地震の直撃でグッピーの入った三百リットルの水槽も倒れ、砕け散り、グッピー十七匹は散乱した部屋のそこここでピクピクはねていた。

 その結果、K君が地震直後、いちばん最初、かつ全力を投入してやったことは、「グッピー探しと救助」であった。

 十七匹中十五匹救助成功という、きわめて高い救命率だったが、K君は、

「こんなことはぜったい人に言えん話や」

 と自覚している。

【油断断水】

 大手石油会社の営業マン・Mさんは、宝塚・逆瀬川さかせがわの戦前に建てられた木造の独身寮に住んでいる。つねに「この寮はボロボロやなあ」との意識のあったMさんは、地震で目を覚ましたときも、

「このボロボロなとこでさえ大丈夫だったということは、たいしたことはないんやろう」

 と判断、もう一回眠った。

 いつものように七時に起きたMさんは、断水に気づかないまま習慣になっている朝シャワーを浴びた。きれい好きのMさんがゆうゆうと二十分浴びたあと、二人目の途中でタンクにあった水が切れ、そのあと二ヵ月、水がこなかった。

【ボケてみせる浦島太郎】

「一月十七日、村山首相は何ひとつ事態がわかっとらんかった」

「国土庁の職員は、あの日定時で帰った」

 など、「十七日の政府のわかってなさ」の例は数限りなくある。

 しかし、震度7に直撃され、家がつぶれて閉じ込められたほどの人でさえも、しばしば事態の重大さはわかっていなかった。

 十七日の昼ごろ、ある十代後半の少年が、倒壊家屋から元気に救助されるさまがテレビで生中継されたが、その少年も浦島太郎状態で、見守っていた人たちと、

「全然大丈夫や」

「おい、これテレビで全国に流れるぞ。関西人やねんからなんかボケてみせ、ボケてみせ」

「ほな、ちょっとつまずいてみよか」

 などと言葉を交わし、救助した友人ともどもまったく全体の状況がわかっていないことを全国に知らしめていた。

 この映像は、その日の午後、三回以上流された。しかし夜になって「今日一日をふりかえる」ダイジェストになったころには、テレビ局も含めてたいへんな事態であることが完全に認識されており「ボケてみせ」などはいっさいカットされ〝つらそうな救助された人〟に一変して短く紹介されていた。

 生中継のときから夜のダイジェストまで全部見ていた東京在住のN君は、当然だと思ういっぽうで、その編集技術にも驚かされた。

【ワンポイントアドバイス】

「おれはよめさんの名前を呼んだ。呼んだと思ってたけど、呼びつづけてたけど、どうも違ってたんやね」

 と後悔する長田ながた区のOさんは、

「名前まちがわんようにすること、これが災害時の最大のポイントやった、ゆうことですわ」

 と、ふりかえっていた。

【花の大阪】

 十七日、バイクを使って、なんとか三宮の会社に行ったK君によると、その日の三宮の大きな特徴は、

「歩いてんのはほとんど全員男だけやった」

 という点だったそうである。

 五日後、買い出しに行った大阪では、OLが、赤や青の派手なコートと、金の留め具のついたハンドバッグなどを持ち、関西的な派手なメイクとピアスで、ふつうに闊歩かっぽしており、神戸のノーメイク女に見なれていたK君は、大阪の女性がみんな美しく思えたらしい。

「今ならこのなかのどの子とでも結婚できるわ」

 と思ったそうである。

【地震浪漫ロマン燃ゆ】

 今回のことほど「大きなきっかけ」はなく、筆者の知る範囲でも一九九五年の一月中に三カップルの間でプロポーズがあった。

 つきあっている恋人同士が、

「二人とも生きてたし、ここはやっぱり……」

 というのはよくわかるが、変だったのは、べつにつきあってもいない男が、大学時代の同級生の女の子に電話し、

「無事やったんか、よかったよかった」

 から入り、その通話中にプロポーズしたというケースであった。ほかにも、昔つきあっていた女の子から、

「大丈夫やった?」

 の電話が入り、それがきっかけでつきあいが復活した、という追憶・再会バージョンも。筆者の知るかぎりで三組ということは、神戸全体ではものすごくたくさんの数のカップルの間が進展したと思われる。

 めでたい話ではあるが、震災直後の興奮が冷めきった今、そろそろ疑問を持ちはじめたカップルもまた多いと思われる。

【仮面夫婦】

 すでに結婚している二人の間の「進展」ぶりもただごとではなく、もしあんなことがなければ、なんとかごまかしとおせたであろう「仮面夫婦」たちは、いっきょにその仮面をふきとばされた。

「あの大揺れのとき、私のことを、まったくかまわなかった」

「家族に一個ずつ配給のおにぎりを一人で食べてもた夫に愛想が尽きたわ」

「ふだん亭主関白でいばってるくせに、いざというとき何もできん人やった」

 などと「震災離婚」が相次いだ。

 離婚に至らずとも、「地震が来たとき、夫は私より、この壺のことばかり気にしていた」と怒りながらテレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に出演した主婦の持ってきた壺は、四十万円ほどと鑑定された、との、笑い話というにはあまりに重い話もあった。

【嫁とりタクシー】

 今回のことをチャンスととらえた人は多い。筆者が二月初旬に乗ったタクシーは、姫路からはるばる出稼ぎに来ていた。大昔に離婚して独り身だという五十がらみのその運転手は、

「アパートやけど、住むとこはいちおうあるから、身の回りの世話してもらえる人おらんかな、思てね。家なくした女の人なんかね」

 と言っていた。

 仮にもつい二十日ほど前まで、女性の三高志向といった話が喧伝けんでんされていた同じ国において、「住む所がある」ことを、女性獲得の武器にしようとしていた、この運転手の厚顔ぶりもすごいが、一〜二月ごろの神戸では、あながち成り立たない話ではなかったところが、もっとすごい。

【竹内まりや】

 東京在住のF君には、八年ほど前につきあっていた、いまだ忘れられない〝神戸の女性ひと〟がいる。

 電話すると、

「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません」

 むろん彼女のほうからの電話はない。

 そもそも二回引っ越した彼の電話番号を、彼女が知るはずもないことに気がついたF君は、思いあまって八年前の自分の電話番号にかけ、出てきた誰ともわからぬ中年男に、

「おたくに最近、無言電話とか、おたくが名乗ったら突然切るような変な電話かかってきませんでしたか?」

 という倒錯した質問をし、無言で切られるという苦しい経験をした。

 竹内まりやの名曲『駅』か『シングル・アゲイン』かのなかに「元気で暮らしているのなら電話くらいくれればいいのに」とかの歌詞があるが、これを文字どおりの意味で体験した人はそういない。

【元気だった男】

 今に至るまでNHKの震災番組というとオープニングに使われる神戸放送センターの「飛び起き宿直職員」。

 衝撃的な映像だったが、学生時代彼に思いをよせていたOLは、インタビューで彼が婚約中と知り、別の意味でも衝撃を受けていた。

【同情するなら金をくれ】

 結婚詐欺師たちにとってどの職業、立場を自称するかは重要な選択。

 一九九五年から九六年にかけては、

「長田の火事で工場が焼けてしもうてな」

「西宮にしのみやから疎開してきたんや」

 と同情させて金をせびるニセ被災者バージョンが急増していた。

【ねるとんボランティア】

「仮設の老人たちの話し相手になってあげたい」

「何か少しでも力になってあげたい」

 と神戸入りした若いボランティアたち。

 しかし十代、二十代の人生経験、知識では、被災老人たちのヘビーな相談事には太刀打ちできない。結局、老人たちの幸福度はそれほど変わらないまま、何度もミーティングをくり返すうち、ボランティア同士で恋が芽生え、結婚するなど、ボランティアのほうの幸福度ばかりが上昇する傾向があった。

【一九九五年版言い訳】

 震災を利用した人は多い。N君は東京在住の神戸人で、同時に若干名の女性とつきあっている。ふだんなら頭を悩ます泊まりの言い訳も今年ばかりは、

「……ちょっと神戸に行っとかんと……」

「そろそろもう一回帰っときたい……」

 などと、憂うれいを含んで、阪神大震災を持ち出すと、どんなに嫉妬しっと深い女性からもぜったい追及されなかったという。

【ざるをえなかった人々】

 倒壊した家から寝巻の身ひとつで飛び出した人々は、さまざまなアンバランスのかたまりにならざるをえなかった。

 やっと取り出せた三歳の娘の小さなスカートをはいた母親。かかとの高いサンダルとかかとの低い靴を片方ずつにはいた中年女性(それでもはきものなしでガラス片だらけの道を行かざるをえなかった人よりよかった)。合わない他人の眼鏡をかけた中学生……。

 とくに、目が悪い人にとって眼鏡、コンタクトを失うことは作業能力をほとんど失うことに近かった。やむをえず、

「大阪の会社にスペアがあるから」

 と、全壊した家とガレキの中から救出したばかりの妻をおいて、昼夜かけて灘区と大阪を往復した喫茶店主、度付きの水泳用のゴーグルをつけつづけたトラック運転手、目を細めつづけた主婦などがいた。

【メリットとデメリット】

 一月という時節柄、

「ちょうどスキーから帰ってきたところ」

「これからスキーに行くところ」

 の人がけっこういた。

 とくに「これから」の人は、図らずもそこそこの着替え、保険証などが一つのバッグに詰めて準備されており、寒さ対策としてもすっぽりとスキーウエアを着れば、活動性の面も含めてとりあえず万全だった。

 ただそのままスキーの代わりに避難所に行くも、「ピンクと赤」など鮮やかな色彩を散らした柄は、他の被災者の手前気がひけた、というマイナス面があった。

【政治的ユニフォーム】

 村山首相はじめ、政治家は、何の必要性もなかったにもかかわらず、

神戸に高級車で到着

作業ジャンパーを羽織って視察

高級車の中でまた脱ぐ

 と、作業ジャンパーを愛用していた。

 一、二度視察に来ただけのある議員など悪のりして、東京・六本木のテレビ朝日『朝まで生テレビ』のスタジオでも着つづけ、被災者でもある小田実おだまことから、

「私でも着替えたのに、あんたがなんでそんなん着てんの?」

 と、つっこみを入れられていた。

【甘くほろ苦いウォーリーを探せ】

 代替バスが動いたところはまだいいほうで、三宮︱元町もとまち間など、車さえ通れなくなったゾーンでは、人々はただひたすら歩くしかなかった。

 一本の歩道の中でさえ、往路と復路が発生し、歩行者たちは対面通行しながらアリの行列のようになって黙々と歩いた。

 ところで、倒壊建物撤去作業のホコリが霧のように舞った当時の神戸では、男も女も大きなマスクをし、帽子をかぶり、物資を運びやすいようリュックを背負い、スニーカー系の靴をはいていた。

 東京では重症の花粉症の人か、過激派しかしないような、この震災ルック、まったく個人のファッションセンス、趣味は出ず、顔さえも目元くらいしか見えない。

 今は東京に住み、八年前、神戸の女性デザイナーに適当に遊ばれて捨てられたF君は今もそのOさんが忘れられない。

 神戸入りして三宮をひたすら歩いている間も、身長百六十五センチくらいで痩せ型、色白で目が大きいというその女性の面影がある人を見かけると、そのたびに、

「な、なんてゆうて言葉を交わせばええんやろう?」

 と、体じゅうの血が止まる思いがしたという。

 しかし、震災ルックのなかには長身、目が大きいくらいの女性はそこらじゅうにおり、この『甘くほろ苦いウォーリーを探せ』は、ひどく神経を疲れさせた。

【震災ルックは強盗ルック】

 日銀は中央銀行の責任として、店舗の壊れた金融機関に神戸支店のスペースを貸して営業させた。その数は十四行にものぼった。ただ、その他行の見ず知らずの行員たちが、通勤や外出のためヘルメットにジーパン、サングラスにマスクまでして日銀行内を歩き回る。

 支店長席の周りまでとても銀行員に見えないマスク男が動き回る事態になり、E支店長は、

「ふつうならぜったい非常ボタンを押すところだけれど、ここはもう覚悟をきめよう」

 と、はらをくくった。

【復興のおヘソ前線】

「パッと見渡したときブルーシートで屋根を覆った家の量が減ってきてるの見て、ああ復興してきたなと思った。屋根のブルー度がバロメーターやね」

「スーパーで働いてるんですけど、硬貨をかきあつめたとき、最初のうちは焼け焦げたやつとか、埋まってたらしいやつなんかで黒っぽいのや茶色や白のがだいぶ混じってました。それが減ってきて、きれいなコインばっかりになってきたん見て、ああ復興やなあ、ゆうて」

 など、各業界、各人それぞれの『復興指数』『復興のめやす』があった。

 そんななか、夏が来て、

「最初のうちは男も女もみんないっしょの震災ルックやったけど……このごろは若い女の子に流行りのへそ出しルックの子がおりますよ」

「三宮ではまだ見たことない」

「私は兵庫区で見かけました」

 と報告しあう中年男たちがいた。

2 避難所もろもろ事情 2 避難所もろもろ事情

【人類の歴史】

 日本の歴史をひもとくと、古代、日本列島で縄文人たちが暮らしているところに大陸から弥生人がやってきて、もめたりしながらも、混じりあい、現在の日本人を形成したという説が有力である。

 そこここの避難所でもこの歴史めいたことがくり返された。いくつかパターンがあり、神戸大学のように、

比較的余裕のある人たちが一応の荷物など持って、まず避難所へ来所

「ここでは寒いでしょう」と管理人に言われ暖房のある部屋に移る

少ししてから、やや離れたところの、家も全部つぶれた地域の住民たちが、着の身着のままでやってくる

後発組が、「わしらが寒い部屋に入れられて、いろいろ服とか持っとるあいつら(先住組)が暖房のある部屋におるのはおかしいやないか」と抗議

話し合いのすえ、混合して体育館に移って落ち着く

 という日本列島型。あるいは中央区の大倉山おおくらやま公園のように、

ホームレスが細々と先住していたところに

大挙して避難民が押しよせ、テントが張られ、炊き出しがふるまわれる

最初はなんとかいっしょにやるも

ホームレスは何かといやがらせをされるようになり、居づらく、「こんなことやったら」と避難所の公園の周りにわざわざ自前の段ボール小屋を建てて住み、公園は完全に後発組のものになる

 という「先住民迫害のアメリカ合衆国型」など、歴史学的、文化人類学的にいっても興味深い「避難所史のいろいろ」がくりひろげられた。

【避難所政治史】

 避難所のリーダーの決まり方と、その権力の推移もじつに興味深いもので、戦後日本の、焼け跡から現在に至る政争の数々が全部つまっていた。

 まず、終戦直後のような、〝みんな惚ほうけた〟段階でのリーダーの決まり方はじつにいいかげんで、たまたま一九九五年度の町内会の役員だった、とか、誰かが、

「リーダーはどうしましょうかねえ?」

 と言ったとき、「はい」と手を挙げた若者が、そのときから「会長」になった、といった偶発的なことで決まっていった。

 総じて初期のリーダーは若い人が多く、それなりの役割を果たしていたが、一〜二ヵ月して当初の混乱が収まってくると、リーダー権をめぐる、すさまじい暗闘が始まりだした。

☆「なんでこんな若造に指図されなあかんねん?」

 と思いはじめた中高年による世代間闘争。

☆宗教団体の大規模ボランティア軍団を背景に、数の力で政権奪取をもくろむ旧公明党型勢力。

☆シベリア収容所帰りの、「あれに比べたら、こんなんなんともあらへん」と迫力を見せ、周囲が持ち上げざるをえない瀬島龍三せじまりゅうぞう型。

 など、さまざまな勢力が〝マスコミには取り上げられないクーデター〟を起こし、若者リーダーを追い落としていった。

 いっぽう、若者の側も防戦に努めていた。その手法は、

☆行動力、決断力はあるが、ややおっちょこちょいの男が自分に欠けている計数感覚、気配りの才能を持つ避難民の彼女を見つけ、二人が補い合って避難所経営にあたろうとする『中小企業の社長夫婦路線』。

☆小学五年、六年ごろのときの同級生など、自分の気心のしれた幼馴染みでがっちりと政権部内を固め、スタッフの溜まり場が同窓会のようになる『フセイン路線』。

☆男にはさっぱりだが、おばさん連中に支持基盤を確保する鼻筋の通ったいい男系『橋龍はしりゅう型』。

☆京大在学中といった威光を背景にした『学歴社会の縮図型』。

☆寝ないで働きづめに働き、周囲を黙らせ従わせる『粉骨砕身型』。

☆高校中退放浪帰り長髪、しかし実行力抜群の『田中角栄かくえい風』。

 など、その生ぐささ、人間くささは、現在の日本政界内部事情など、はるかに上回っていた。

【ギターを持った渡り鳥】

 宗教団体絡みのもめごとという、ほんの少しあとから日本全体が巻き込まれることになる問題は、ひとあし早く一部の避難所で見られていた。

 たった八百平方メートルほどのせまい体育館をケアする仏教系のボランティア団体と、キリスト教系の大学のサークルとが、お互いを無視しあい、労力をロスして、とうとう役割の分担を行なわないまま避難民にいらぬ気を遣わせ、終わったところがあった。

 そんななか、京都の大学生がギターを持ってスクーターで垂水たるみ区の避難所にフラリと現われ、そのまま泊まり込み、その音楽的センスを利して歌を教えながらまず子供たちの心をつかみ、徐々にのし上がって、文字どおり徒手空拳、何の地盤カンバンもなく、リーダー格におさまった、『ギターを持った渡り鳥』『シェーン』パターンもあった。

 NHKが彼のドキュメントを放送していたが、彼は世代間闘争に敗れたものの、ふたたびギターを背にスクーターに乗って京都に帰るときは小学生たちにえらく別れを惜しまれていた。一年後の同窓会でも熱烈に歓迎され、自信をつけた彼は、進路の変更を決意。小学校の先生をめざして留年することにしていた。

【東灘区のジェイソン】

 急ごしらえの避難所で必要だったものの一つが「暖」。

 倒れた家だらけで材木には困らなかったが、火にくべるためには、切ってマキにする作業が必要。

 手のこぎりではたいへんな重労働で、たまたまチェーンソーを持っていた東灘区のOさんは頼りにされ、まるまる家二軒、物置一棟を切り刻み、「ジェイソン」と呼ばれていた。

【沈まぬ太陽】

 灘区の王子動物園では、獣舎の建物こそ無事だったものの、ライフラインのストップで、イグアナ、マーモセットなど熱帯系の動物を集めた「太陽舎」が冷え込んでしまった。やむなく飼育員たちは、ヒーターを十台並べて暖めつづけた。

【割り算ノイローゼ】

 避難所に運び込まれた救援物資を分配する担当者を苦しめたのは、平等の確保。たしかに、配ってはみたものの、全員に行き渡らなかったときの、漏れ組の怒りはすさまじかったため、人数分ないときは、配給そのものを断わることさえも。

 水が来ても、弁当が来ても、人数で割る作業だけをくり返した担当者のなかには、町でたまたま給水タンクローリーを見かけても、トン数を見て、「÷283で……」などとつい計算してしまい、

「割り算ノイローゼになってもた」

 とこぼす人もいた。

【賢者の贈り物】

 訳のわからなくなっている配給担当の役人もおり、

「欲しいものを、一人一品だけ配給します」

 と言いながら、その一品が「パンツ五十枚セット」とか「歯ブラシ二十四本セット」という、とほうもない数量で、歯磨き粉を持っていない人が歯ブラシを二十四本もらうなどというO・ヘンリーの名作『賢者の贈り物』のような事態が発生していた。

【体育館の中の横丁】

 神戸市のマクロな区画事業がもめていたのは知られているが、避難所になった体育館などの中の、ミクロな区画事業もそれぞれもめていたことはあまり知られていない。一月から二月にかけて、六甲ろっこう小学校の体育館は、さながら人口千人の都市。

 ひとつの地域が、突然濃縮された壁のない人口超高密度状態がもめないはずもなく、

「どこに小道を通すか」

 といった区分け、

「誰と誰を組ますか」

 という住民の班分けをするリーダーの神経をすりへらした。

 しかし、その甲斐あって(部外者には混沌にしか見えなくても)出入り口から一本「大通り」が走り、枝分かれした通行できる小道が縦横に延び、「横丁」「路地」も発生した。

 また、「神戸市灘区六甲小学校体育館内×班」がそのまま住所になり、郵便物も届いた。

【避難所内避難】

 マスコミはきわめて抽象的にしか伝えなかったが、二月、三月ごろの避難所内の雰囲気は荒涼としていた。

 亡くなった息子へのせめてもの供養くようにお経を読むおばあさんに、

「うるさい。黙らんかい」

 線香を上げる人に、

「くさい」

 と怒鳴る鬼のような輩やからが出現し、寝ていて足を踏まれたといって中年の男同士の取っ組みあいが起こった。

 素手の格闘ならまだいいが、包丁を振り回す人が出て警察が来て押さえる事件も発生した。

 一過性のケンカだけでなく、

「△△は許せん。ぜったい殴ったる」

「いつどついたろか、××のやつ」

 といった相性が悪いなどという言葉ではとうてい収まらない文字どおりの宿敵関係が生まれ、力の弱い片方が教室を出て廊下で寝る『避難所内避難』という現象も。

 そんななか、徐々に仮設住宅ができ、避難民が逃げるように入居を始めたころ、老人が近隣と交渉のないまま、死んで一ヵ月も放っておかれるという事件があった。コメントを求められた評論家は、

「コミュニティづくりの問題ですね。避難所ではそれなりの交流もあったわけですよ。それが一転して……」

 などと語っていた。

【避難所を食わしてやる避難所】

 避難所には、学校や公民館など公認のところと、公園や市民グラウンドのような行政の認定がなく、したがって公的支援の物資も届けられない非公認のところとがあった。

 非公認のところは自活せざるをえず、なかにはマスコミに露出してダイレクトの支援をあおぐ積極策に打って出たところもあった。

 生活のためとはいえ半年も「避難所の暮らし」の取材を受けつづけると、避難民側も、

「バイクでカメラに向かってきてください」

「はい」

「もう一回撮ります」

 といった、ドキュメンタリー撮影というよりはドラマ制作に近い演出にも違和感なく従えるようになっていた。

 避難所リーダーと、各マスコミ関係者の間に太いパイプができて、

「誰か密着したいんだけど(適当な人みつくろってくれる?)」

「わかりました」

 といった会話が交わされ、なんとはなしにタレント仕出しプロダクションの社長一歩手前のリーダーもいた。

 避難所のなかには、

行政側から非公認とされ、物資不足に悩み

マスコミに打って出ると、とたんに全国から「〜公園あてに」などと救援物資やボランティアが届きすぎ

余った物資を周辺の困っている避難所に回し、助けてやる立場になる

 と、まるで戦後のアジア諸国で、

韓国、シンガポールなど途上の国が、日本、アメリカなどから援助を受けつづけるうち

自らも先進国並みとなり

周りのマレーシア、インドネシアあたりに援助を与えるようになる

 という歴史に似た現象が起こった。

【居座り避難民】

 食費いらず、住居費ゼロをいいことに、避難所に居座りつづけた避難民がいたことは事実。

 支援グループなどからは、

「こんだけ応援したっとんのに立ち上がろうとせん。阪神といっしょや」

 と、避難民=タイガース論が浮上していた(一九九五年、阪神は最下位)。

【長田のイエス像】

 長田区はベトナム人も多く、彼らが避難したカトリック教会の手前で火の手が止まったことから、そこのイエス像のおかげかと話題になった。大きく手を広げた彫像の台座には、ベトナム語、韓国語、日本語で、

「互いを愛しあいなさい」

 という言葉が刻まれている。ボートピープルとともにベトナムから運ばれてきたとのこと。

 しかし、この二十世紀、植民地→第二次大戦→ベトナム戦争→ボートピープルと、最も悲惨だった地域の一つがベトナムだったわけで、そのベトナムから運ばれてきた先で、また大震災ということでは、このイエス像、火を食い止める前に、もうちょっと何とかならんかったんかいな、との声も。

【避難はまずい】

 当時、配収の世界記録を樹立したアメリカ映画『インデペンデンス・デイ』。

 一九九六年の日本公開での20世紀FOX日本支社の宣伝は力がこもっていたが、「劇場に避難せよ」のキャッチコピーを関西エリアだけ「衝撃に備えよ」に変えていた。

【建前】

 エドガー・アラン・ポーの『黒猫』は妻の死体をコンクリートの壁にぬりこめることで完全犯罪が成立したと思い込む男の話だが、この論理でいくと、鉄筋コンクリートの建物を手抜き工事でつくることは、限りなく完全犯罪に近いわけである。

 そして今回のように地震があったらその瞬間、人命や食料、早急な撤去作業による道路確保など、優先されるものが山のように発生し、一ビルの柱の内部の帯筋おびきんの数など、だれも気にしなくなってしまう。

 今回も明らかな手抜き工事が発覚したビル、マンションは多かったが、損害賠償請求訴訟はほとんどなかった。まさに完全犯罪ではあった。

 なお、「神戸に地震は来ない」との思い込みが手抜き工事を生んできたわけだが、

「いくらなんでも、もうないやろう」

 と、半壊住宅の修理工事手抜き続出(手抜きの二乗)というのが、これまた次の震災まで真相はわからないだろうともっぱらの噂である。

【貝塚かいづか建築】

 素人目にもわかるいいかげんな建築は、

「木筋コンクリート」

「何にも入ってない、ただのコンクリート」

「空缶コンクリート」

 など、

「違法建築展示会や」

 と、評されたり、

「あんな倒れ方もある、こんな倒れ方もある、建造物倒れ方博覧会や」

 と形容されたりしていた。

 ただ、タバコのささった昔のデザインの清涼飲料水の缶などは、

「ああ、ここで一服したんやなあ」

 と考古学の貝塚のように「当時の生活ぶり」みたいなものもしのばせ、ほのぼのさせないでもなかった。

【169勝1敗】

 もちろん、神戸にも良心的な建築業者はいた。手掛けた家がほとんど倒れなかった『169勝1敗』を誇る名棟梁がマスコミに取り上げられていたが、おそらくは沈黙したままの『0勝27敗』『2勝10敗』のような親方もいたはず。

【最も安全な部屋】

「おまわりさん、地震来たらおれらどないなんの? 逃げられへんやん」

 とは、留置場入りした人が発する問いかけとしては震災の前々からかなりポピュラーなもので、看守役の巡査は、

「あんなあ、こんなようけ鉄格子はまったうえ、ぶあついコンクリートがびたーっとかたまってあんねん、ぜったい壊れへん。おまえらえーなー、悪いことしていちばん安全なところにおんねん、ええなあ」

 と受けるというのが一つの儀式のようになっていた。

 看守の言葉はうそではなく、警察署の建物が倒壊したところでも、留置者の怪我人けがにんはなかった。

【さまざまな呆然】

 とても助かった人はいないであろうと思わせるひしゃげたような家でも、二週間くらいして通りかかると、

「全員無事です、連絡先は……」

 と板が立ててあったりし、それを読んだ者に、

「無事でよかったなあ」

 と言うよりも、

「しかしどうやって助かったのか」

 と逆の意味で呆然とさせるパターンも。

【転宅】

 東灘区御影の倒壊地区を歩いていると、ひしゃげた家の、辛うじて残っている表札の下に板きれがあり、

「南隣りへ転宅しました」

 と書いてぶらさげてあった。

 南側を見ると、家族はテントを張って生活していた。

「一世一代のユーモア」かもしれなかったが、通りがかった人は指さして笑うわけにもいかず、ほとんどの人がニコリともせず行きすぎていた。

【レッドカード】

 余震で崩れる可能性がある、と判定されたとき、立入り禁止を通告した紙片、「レッドカード」。

 ほんの数ヵ月前までは、

「サッカーの試合で、タックルが相手の足に必要以上に当たったので危険と判定」

 といった、今から考えれば、じつにのどかな事象に関連した単語だったが、震災後、建築診断士によって、

「この建物はもう使えない」

 と判定され、いきなり貼られた一枚のレッドカードは、これまで営々ときずきあげてきた家財の行方、これからの人生設計まで左右しかねない、すさまじい意味を持つ紙片となった。

 また、その紙質と印刷がひどく安っぽかったことも、被災者のやりきれなさを弥増いやました。

【グリーンカード】

 居住OKを意味した、「グリーンカード」。

 建築診断士が日本にほとんどいなかったうえ、やっと見つかったところで、災害時出動した経験は今回初めてという人が急いで診断していったため、判定の変更が多く、このことでも悲喜劇を生んだ。

 ちょっとした抗議でグリーンにくつがえったレッドカードも多く、プロ野球の審判でさえももう少し権威があるのにという展開もよくあった。

 東灘区住吉山手のあるマンションでは、一ヵ月半のうちに、

「レッド→イエロー→レッド」

 別の棟では、

「レッド→イエロー→グリーン」

 と「信号」のような変化を見せた。

【イエローカード】

 やはりもっとも市民をあきれさせたのが「イエローカード」である。

 立入り禁止を意味するレッドカードに対し、イエローカードが意味するところは曖昧あいまいで、カードには、

「余震のときには十分注意してください」

 とあった。

 突然強い揺れが襲う直下型の余震では、だめなときは、「十分注意」した瞬間やられる。家にイエローカードを貼られた市民は結局どうしていいかわからず、

「要するにイエローカードちゅうのは、もし何かあったとき当局が責任負わんですむように『十分注意』しとるちゅうこっちゃなあ」

 と言っていた。

【謎の土】

 航空会社に勤める定年前のサラリーマン・J氏は、陶磁器のコレクションが趣味である。

 芦屋あしや市にある自宅は全壊をまぬがれたものの、二十年以上にわたって収集し、ものによっては親から引き継いだ、李氏朝鮮から伊万里いまり、信楽しがらき、唐代チャイナから現代に至る名品の数々は一つ残らず割れた。

 ゴミとして捨てざるをえなかったJ氏、

「どこに捨てられるんかしらんけど、将来考古学者がそこを放射性同位元素使って年代測定したら、九〇〇年代から一九九〇年代までごちゃごちゃにあって、訳わからんやろな」

 と科学的に分析していた。

【住宅業界三重苦】

 数ヵ月の間、神戸じゅうで壊れた家屋の撤去が続いた。オレンジ、イエロー、パステル調のグリーンなど、さまざまな色のブルドーザーやクレーン車が動き回り、埃ほこりの飛散を防ぐため大量の水がかけられる。

 撤去にも悪徳業者がおり、

「無料で解体撤去の奉仕させていただきます……電話番号030……」

 とあって、頼むと、本当に無料でやってくれるのだが、どんな無常観にとらわれ、覚悟のあった人でも、撤去中にさまざまな思い出の品、アルバムなどが目の前でガレキの中からのぞくと、

「ちょ、ちょっと、あれ取りに行きたいねん」

 ということになる。

 悪徳業者はそこが狙い目で、

「そやけど、ブルドーザー止めたら一分三万円かかりますけど、よろしいか?」

 とやっていた。

 神戸人は、

「あいつらブルドーザーを動かすときでなくて止めとるときに儲もうけてんのやな」

 とあきれていた。

 各種悪徳業者大量発生に、おそらくは、

手抜き工事欠陥住宅を

悪徳不動産業者の紹介で買わされ

本物の地震で壊れたあとを

悪質解体業者によって泣かされながら撤去される

 という、住宅業界三重苦の人もいたと想像される。

 ガレキの撤去が終わったあとも、あきらめきれない人が自宅跡地の土を掘り返し、ふるいにかけ、「六百二十円出てきましたわ」といった通称〝宝さがし〟や「ペットの亀六十六日ぶり救出」などのエピソードも発生した。

【突発景気】

 被災地に社員の住んでいた企業の住宅担当者は、時ならぬ大量の社員寮の確保に走り回ることになった。

 おかげで被災地、および周辺の壊れなかったマンションは、超売り手市場に一変した。住宅担当者の採りうる道は二つ。

 一つは平時借り手のつかなかったような不良物件に手を出すこと。このため空前のマンション不況にあえいでいた大阪の不動産業者は一月十七日を境にそれまでと立場が逆転。朝日放送のような誰でも知っている有名企業や、東芝のように世界じゅうの銀行からトリプルAの評価を与えられている超優良企業の人事厚生担当者に対して、

「ウチは現金取引しかしてまへんねん」

 と言い放ったり、

「とっておきの物件ですわ」

 と、ラブホテル街の中のマンションを斡旋あっせんしたり、

「タバコ吸う人お断わり」

 と注文をつけたり、やりたい放題だった。

 担当者の採りうるもう一つの策は、ふつうなら社員寮には考えられない超高級物件に目を向けること。

 その結果、独身寮が壊れたおかげで、震災前よりよほど駅にも近いお屋敷町の、ホールにギリシャ風の円柱の立ち並ぶ、ふつうなら重役向けの高級マンションをあてがわれた神戸製鋼新入社員もいた。

 NEC、神戸製鋼など大手企業の、社員に対するフォローの手厚さを見せつけられた神戸、芦屋の親たちの間で、

「やっぱり一流どころに行かせんと」

 と、進学塾が大繁盛していた。

【ゲゲゲの鬼太郎】

 あまりにもたくさんの人が死に、しばらくの間、

「毎日喪服着てる」

「葬式の梯子はしごした」

 話などざらだった。

 若手サラリーマン・S君は梯子とまではいかずとも、それなりの数の葬儀に出席しつつ、人事部が急遽きゅうきょ用意してくれた大阪の借り上げ独身寮に入った。それまで借り手のつかなかった物件らしく、窓をガラッとあけるとそこは墓場で、まるで墓地の中に住んでいるようだという。線香のにおいの染みついたスーツで、ひとり卒塔婆そとばを横目に出勤するS君は、

「おれはゲゲゲの鬼太郎か?」

 と自嘲ぎみに言っている。

【ねずみ男】

「神戸で葬式の梯子をした人がたくさんいた」

 との話を聞いたある週刊誌の編集者、

「その話は使える。最高記録は何連続だったか取材してきてよ」

 と発言した。

 くだんの会社員がゲゲゲの鬼太郎なら、それで商売しようとするこの編集者はさしずめねずみ男。

【ハワイヘ風呂に入りに行った女】

 流通業に勤める人は十二月は最も忙しい月で休みがとれない。逆に一月、二月はヒマで連休がとりやすいうえ、旅行代金も安いため、この時期に海外旅行を計画する人が多い。

 Sデパートに勤める独身の女性、M子さんは一月二十一日からのハワイ行きのチケットを一九九四年に確保していた。

 関西空港は無事で物理的には旅行に支障はなかったが、大阪の旅行会社は良心的で、

「ふつうならキャンセル料全額いただく時期ですけど、今回は五千円でいいですわ」

 と言ってくれた。しかしM子さんは、水も風呂もない神戸での生活を考え、思いきって、

「いや、ハワイ行きます」

 と押し切り、ガレキの街の中をトランクをガラガラいわせて出発。ワイキキで五日ぶりに風呂に入り、日に焼けて帰ってきた。

【裸で笑いつづける男たち】

 自宅、店舗ともに崩壊した東灘区の商店主・Aさんは、一月末、二週間近く風呂に入れなかったアルバイト少年ら七人を引き連れて大阪の銭湯に行った。

 神戸から車で行きやすかった場所柄、そこにはすでに風呂難民が押し寄せていて(ヤクザもベンツで来ていた)駐車場前で行列、銭湯に入るまでに行列、中の洗い場前でまた行列、という具合だったものの、

「久しぶりに風呂に入れる」

 というだけでAさんらを含めて客はみなうれしくなってしまい、裸の男ばかり洗い場の前で立ったままひたすらずっと笑いつづけていた。

 Aさんは、今になって、

「裸の男ばっかし行列しながら三十分ぐらいゲラゲラ笑ろうとったけど、あれは異様やったなあ」

 と思い出している。

【努力風呂】

 西区で耳鼻科を開業しているFさんの家は電気はすぐついたものの、水道が復旧したのは二月八日だった。しばらくはウォシュレットのお湯がとても気持ちよく、

「トイレに行くたびに、ますますお風呂に入りたなってしもた」

 そうだが、ガスが来ないので風呂は沸かせない。

 思いあまったFさんは、登山用の携帯燃料やプロパン、ガスコンロなどを四台並べ、やかんとなべでくり返し湯を沸かし、湯気で真っ白な中を徐々に浴槽に移してやっとのことで入ったりした。

 二月下旬にはコンクリートをとかす温水を作るための幅一メートルの工事用電熱機械を購入、風呂の中で七時間作動させつづけて沸かすようになった。

【熱帯魚風呂】

 灘区のDさんは熱帯魚用のサーモスタット(ヒーター)を浴槽の中に仕掛け、二十時間かけて沸かしていた。

「五時間後には水温十三度」

「十時間後には水温二十一度」

 など、詳細にデータもとった。

「熱帯魚方式」を思いついた人は多かったらしく、専門店ではブラジル産のナマズなどを飼うための最大のサーモスタットから売り切れていた。

 ただ、この熱帯魚方式、熱した棒でヤケドする可能性と、汗など塩分がお湯に溶け出しすぎての感電のおそれがあったため、注意が必要だった。

 Dさんは同じ方式を採用している友人と、

「震災は風呂入んのも命がけやな」

 と言い合った。

【トイレ泥棒】

 水洗トイレは断水しても一回分だけタンクに水が入っている。そのため断水後もあと一回は気持ちよく用を足せるため、未使用のトイレを求めてそのためだけにミニバイクでさまよい、留守宅の侵入をくり返す、バージントイレハンターがいた。

【六甲の自然水】

 トイレに関する苦労話は多い。

 平野部はたいへんだったが、東灘区の山側はすぐそばにダムや取水口があったので、住民はそれを汲んでタンクに入れることで、とりあえずなんとかなっていた。

 同区住吉台に住むNさんの家もその一つで、毎日せっせと近くの互助ダムに水を汲みに通い、トイレ用水にしていた。

 ところが、二ヵ月ほど経ち、水道も復旧してだいぶ経って、春めいてきたころから、どうもトイレの調子が悪い。

 Nさんが久しぶりにタンクのフタをあけてみると中は一部深緑色。水量調節のためのフロートに藻がしっかりとからみついていた。ダムから汲んできた水の中の藻の小片が育ったらしい。

 Nさんは六甲の自然を感じ、

「このまま夏までおいとったらカエルやらゲロゲロ鳴き出すかもしれんな」

 と思いながらも、やむなくタンクをつけかえた。

【マスコミ矛ほこと盾たて】

 震災直後に、

「もっと公園があればよかった」

 だの、

「入り組んだ路地が消防車をはばんだ」

 だの、

「広い道路があれば火を食い止められていたのに」

 だのと、大合唱していたマスコミが、二月にその公園、路地解消、広い道路を盛り込んだ復興都市計画『フェニックス・KOBE』が発表されたとたん今度は、

「住民無視!」

 とこれまた大合唱を開始していた。

 大部分の市民は計画に大賛成とまではいかなくとも「まあしゃあないなあ」と消極的に賛成していたのだが、賛成というのはなかなか目に見えないもので、マスコミに取り上げられにくかった。

 逆に、一部の反対派住民(地域)の「市役所へのデモ行進」や、「市担当者とのつかみ合い」のほうは動きがあって絵になることと、反対派からメディアヘの、

「○日、デモしますんで」

「明日は市と戦争ですわ」

 との「耳打ち」もあって記者、テレビカメラが殺到していた。

 その結果、東京発信のマスコミを通すと、まるで神戸じゅうが復興計画に反対しているかのような印象を与え、計画は変更を余儀なくされていた、と言うと、とんでもない話のように聞こえるが、世界の災害の歴史を見ると、

災害

理想の復興計画

反対派登場

理想はうやむや

 は、関東大震災はじめ、世界各地で無数にくり返されてきた「セオリーどおり」の展開なのであった。

【聖と俗と土地】

 私有地も一部とられることになる、神戸市整備計画をめぐっての住民へのテレビインタビューは、鬼気迫るものが多かった。なかでも凄すごかったのは、境内の一部の収用を通告された寺の住職の話である。

「仏に仕える身で何を言っておるか、と言われるかもしれませんが」

 とか、つっこまれそうなことを、すべてみずから先に言っておいてから、突然、顔色を変え、せきを切ったように、

「しかし、許せん、突然、土地をまきあげるなんてことは……」

 と大声をあげたかと思うと、またトーンが下がって、

「形あるものは壊れると申しますから致し方ないかも、とも思います……」

 と、観念したように静かにつぶやく、などと短いインタビュー中で聖俗を行ったり来たりしていた。

【団地の鼻】

「レッドカードを貼られた集合住宅をどうするか、補修ですますか、建て替えるか、費用の分担はどうするか」

 は、住民合意取り付けも含めて入居者にとって大きな問題だった。

 東灘区の六甲中腹のU団地では、

二十棟見た目も横並びの団地だったものが

地震で14号棟一棟だけレッドカードで立入り禁止。「かわいそうに運が悪かったんやなあ」と団地じゅうの同情を集める

意外なほど住民合意がスムーズにいき、全面建て替え決定

くすんできた白の団地の中で、一棟だけ薄いグリーンと茶色の真新しい瀟洒しょうしゃなマンション風に再生。資産価値もぐっと上がる

完成が近づくにつれ真向かいの15号棟の住民などは陰で「見たくもないわ」と言い合うようになる

 という、経過をたどっていた。

【二階は震災パーク】

 伊丹のサラリーマン・Sさんは、一軒家のおもに二階部分で母と暮らしていた。

 地震で二階の土壁には大きなヒビが何本も入って畳は砂だらけ、家具、本棚はすべて転倒したうえ、ガラスが飛び散って、靴をはかないと入れなくなった。やむなくSさんらは、二階から一階に「自宅内引っ越し」をするかたちになり、なんとか生活していた。

 Sさんが自室にしていた二階六畳間は、片づけようにも手がつけられず、やむなく半年そのままにしてあった。

 その間、名古屋など、よその地方から友人が来たときなど、きまって、

「震災たいへんだったでしょう、どんなだった?」

 という話になる。Sさんは、そこでおもむろに、

「どんなやったと思う? 体験させたろか?」

 と前振りをふってから、

「おいで」

 とその友人を連れてトントントンと二階に上がり、六畳間のふすまをガラッとあけ、

「ジャジャーン、こんなんやった」

 とやって、その部屋をテーマパーク的に活用していた。

3 震災関西弁あいさつ辞典 3 震災関西弁あいさつ辞典

【何があったんか知らんけど】

 神戸西部の垂水区に住むOLのM子さんは、震災直後の一月、「歩き」と「代替バス」「山陽電車」を乗り継いで、岡山県にほど近い高砂のスーパーまで、生鮮食品と水を買いに出かけた。

 そのあたりは震災の影響はまったくなく、ふつうの生活が送られている。そこに大量の買い出し客が、ばかでかいリュックを背負ってやってくれば、地元の主婦にとってはレジの列が長くなり、不便になるということでしかない。

 M子さんは後ろに並ぶ四十過ぎのおばさんに、

「何があったんか知らんけど(夕方の忙しいときにかなわんなあ)」

 と聞こえよがしに言われたという。

【たいへんでんな】

 本気にせよ表面だけにせよ、とりあえずよく使われたあいさつ。

 震災とは何の関係もなかった京都の主婦・S子さんは二月初旬、小学二年と一年の子供を連れて、大阪の実家に遊びに行った。

 おばあちゃんはいつものように食べ物やお菓子など、持てないくらいのお土産みやげをくれた。ふだんからリュックを愛用しているS子さんら三人は、帰りの電車の中で次から次に席を譲られながら、

「神戸から買い出しでっか? たいへんでんな」

「たいへんでんな、水はもう来よりましたか?」

 と老若男女から声をかけられ、いちいち否定するのにも疲れ、楽しかるべき外出だったが、だんだん本当に暗い顔になり、帰路を急いだ。

【心配で……】

「神戸の親戚が心配で……」

 などと教授に訴え、鬼教授といわれるような先生でもこれには何も言えず、単位を救われる留年瀬戸際のアホ学生、続出。

【こんなこと言うたらなんやけど】

  「悲惨な状況を話したい」

    +

  「関西人としてはオチをつけたい」

    +

  「周囲に対する配慮」

 などの相反する複雑な欲求を満たすうえで、被災者の会話の中にしばしば挟みこまれたフレーズ。

 スーパーの買い物で並んでいたり、鉄道の代替バスを一時間も二時間も待っていたりすると、前にいる兄ちゃんたちの会話を、いやおうなくずっと聞かされてしまう。

「まあこんなこと言うたらなんやけど、アパートの壁がまるごと取れてしもて中身がそのまま丸見えのやつ、あれ『リカちゃんハウス』そっくりやね」

「まあこんなこと言うたらなんやけど、地震が来たルートちゅうのは関西人が徳島の阿波あわ踊りで淡路島あわじしま通って行くときとまったく同じルート通ってきたんやね」

「まあこんなこと言うたらなんやけど、阪神高速の倒壊現場、あの真ん前にちょうど土木作業服の専門店があったんやね、のぞいたら店員ニコニコしとったで」

 と、延々「まあこんなこと言うたらなんやけど」を連発し、それを、

「まあ笑ろたらなんやけど」

 で受けつづける二人組の高校生がいた。

【今年もよろしく】

 一月十七日という時節柄、被災者といえども地震直後にしばしば交わさざるをえなかったあいさつ。

 これのおかげで、被災者と友人、あるいは被災者同士の会話は、ある種の不自然さを余儀なくされていた。

「家の中で壊れんと残っとるのは、茶碗三つだけや」

「うちはタンスが倒れてないのに壊れた」

 といった「誰それのとこでは……」などの〝悲惨話〟の応酬のあと、一転、

「まあ、こんなときなんやけど、今年もよろしく」

「いやいや、ほんまこんなときなんやけど、こちらこそよろしく」

 などと新年のあいさつをせざるをえず、そばで聞いていると、その展開の急転直下ぶりに驚かされた。

 こうした知人同士の『急転直下型会話』に対し、昔の同級生など三年ぶり、五年ぶり、あるいは何十年ぶりに連絡しあったケースでは、悲惨な状況、安否話のあと、

「あれからどうした、××君はどうなった、石油ショックで仕事やめた、去年子供が高校入った、ヨメさんと別れた」

 といった人生話、よもやま話を経て、

「ほな、まあ今年もよろしく」

 で終わる、という『大河ドラマの総集編のような会話』も多く交わされた。

【老ふけましたなあ】

 言葉に出しては使われなかった一言。

 学生ならともかく、十年、あるいはもっとぶりに母校などに駆けつけた人同士が会った瞬間、互いに抱く第一印象は、なにはさておき、

(老けましたなあ)

 というもの以外であるはずもなかった。

 同級生でさえそうなのだから〝十年ぶりに会った先生〟の老け込み方など息を呑むことさえも、しかしただでさえがっかりしている被災者相手に、

「老けましたなあ」

 などと追い打ちをかけられるはずもなく、まったくそれには触れないまま、お互い心の中で、

(先生、老けましたなあ)

(こいつも老けたなあ)

 と思いながら、

「しかし阪神御影駅はたいへんなことになってますねえ」

「そうそう」

 などと話を継いでいた。

【大丈夫やった?】

 一九九五年、神戸人の間でもっともよく交わされたあいさつ。

 答える側は、家が全壊しようが、家族が入院しようが、手を複雑骨折してギプスをしていようが、生きてさえいれば、「大丈夫やった」と答えるという「大丈夫」の定義の要求レベルがじつに低いおおまかなものになっていた。

 それにしても「おじいちゃん死んだ」「住むとこない」的な暗い内容の会話を毎度毎度暗い雰囲気でやれるはずもなく、被災者同士の会話のトーンはしばしば異常に明るい。

 それは、

「ハロー ハウアーユー!」

「ファイン アンドユー?」

「ファイン」

 という中学英語のレッスン1に似ている。イギリス人は、どんなつらい状況でも〝ファイン〟と答えるというが、なんとなくそれが連想される会話ではあった。

【あんまり思いつめないで】

 二月初旬あたりだと、筆者らは、

「雨が降りつづいたらまた土砂崩れがあるかもしれん」

 など、とりあえずは目の前の短期的な一つか二つの問題についてどうすべきか苦悩しているのに、それを見た部外者は、 マスコミで短、中、長期とりまぜたじつにさまざまな〝問題〟を知っていて、

「地盤がゆるんでいるところに梅雨の長雨が来ると危ないらしいぞ」

「被災地というものは二、三年してから経済がより深刻に落ち込む」

 など「こんなのもある」「あんなのもある」と教えてくれる。

 こっちは一つか二つの問題で手一杯なためうるさくてしかたがないうえ、あらためて別の問題の存在を認識させられ、ますます落ち込まされたりする。

 実家が土砂崩れに巻き込まれるかもしれない、と恐怖していた筆者は、ある部外者に、

「あんまり思いつめないで」

 と、まるで人間関係の悩みか何かのようにアドバイスされ、

「これ思いつめんかったら、どんなこと思いつめんのや?」

 と呆然とさせられた。

【お大事に】

 宗教団体は、「不幸」の情報を素早くキャッチして入信勧誘のターゲットにする、というが、今回の神戸は全戸それといってよく、各団体の力の入れ方はただごとではなかった。

 かくして、被災者が日曜日に、こたつにでも入ってボーッとしていると、まるでホームパーティでも始まるかのように、次から次にドアの呼び鈴りんが押され、新旧和洋大小とりまぜたさまざまな団体が登場、いっこうにゆっくりできない、という現象が起こった。

 ただ、しつこく説明すると、うるさがられ、逆効果であることは、宗教側も知りつくしているらしく、聖書や、表紙に大きく「愛」などと書いてある、その団体のパンフレットをすっと差し出して、

「お大事に」

 と言うとサッと帰るというイソップの『北風と太陽』なら、あきらかに「太陽」たらん、としているところが多かった。しかし、次から次に来る団体が、ほとんど「太陽」というのもまた寒々とさせられるものであった。

4 炊き出し食い倒れよもやま話 4 炊き出し食い倒れよもやま話

【日銀支店長の盲執】

 山口組は、震災直後から組長自ら運動着姿で水、食料を配っていた。ごく近くに住む日銀の神戸支店長が、乾パンぐらいしか食べれずに着の身着のままで三日ぶりに自宅に帰り着くと、近所の人はみな山口組にまあまあのものを食わしてもらっていた。

「どないです?」

 と食料をすすめられ一瞬迷ったが支店長は、政府中央銀行に奉職する者としてからくも踏みとどまった。

【前兆】

「去年からネズミが少なくなっていた」

「ペットの犬の気性が荒くなっていた」

 など、予兆についての証言が相次いだが、

「そういうたら去年の秋からやたらと夫が食べ放題の店に行きたがっとった」

 と証言した主婦も。

【震災カクテル】

 自慢の洋酒コレクションを粉みじんに砕かれた垂水区に住むサラリーマン・Eさん、こんなことでもなければけっしてありえなかったであろう超豪華カクテルの香りに、一瞬陶然とうぜんとした。

【女】

 ある避難所では、初日の夜配られたのは三人に一本の牛乳だけだった。おしゃれざかりのOL・S子さんは、そんな状況にもかかわらず、自分のぶんを全部は飲まず、少量をティッシュに含ませ、顔を拭いていた。

【豪華メニュー】

「気の毒な話」が好きなマスコミには、どこにも載らなかったが、

「じつは大震災初日から二日目あたりは、ごちそうを食べた」

 という人は意外に多い。

 いきなり停電で、冷蔵庫にあった食品はみすみす腐らせるより急いで食べたほうがいいと、なんとか火をおこして焼いてお腹に詰めこんだ家庭が多かった。

 筆者の友人の家庭では、初日の夜のメニューは、

「ポークソテー、生ハム、切り身魚のムニエル、水ギョウザ」

 で、翌朝は、

「オムレツや目玉焼きなどたまご料理各種」

 を食べられるだけ食べた。

 別の友人のところも、

「牛の焼き肉レモン添え、いちご、りんご、みかん、グレープフルーツ」

 と、これまた悲惨の対極にある、豪華メニューだった。

【シーフードヌードル】

 大ごちそうのあとの食事内容の低下のスピードはものすごく、焼き肉を二日食べたあと、二週間ほどスナックとインスタントラーメンの生活を強いられたりした。ダイエーなどに買い出しに行っても、開店時間に少し遅れると、生鮮品は売り切れ、しかたなくカップめんを買わざるをえなくなる。残ったものばかりをとりあえず買うためか、結局家の中には、同じ種類のカップめんが増えてしまう。

 須磨す ま区在住のOさんの家では、在庫がシーフードヌードルばかりになってしまったそうである。五日もシーフードヌードルを食べつづけると、あきるのを通り越して、舌が慣れてしまい、二月になって食料事情のよくなったあとも、洗脳されでもしたように、突然シーフードヌードルを食べたくなり、あらためて食べてみては、

「やっぱりおんなじ味やわ」

 と確認するという複雑な食心理に陥っていた。

【有音食品無音食品】

 ほとんどなにも口にできない被災者が溢あふれるなか、食料を携えて被災地入りしたマスコミ、ボランティア団体は、違った意味で「食べる苦労」を味わった。

「ロケ車の中でカーテンを引いて食べるように」

「毛布にくるまって食べろ」

 など、ノウハウは蓄積されたが、ある宗教団体の申し送りマニュアルには、

「せんべいだめ、ようかんなどがいい」

 という一行が。理由は食べるとき、音がしないから。

 それにしても、「主食、副食」「必要栄養素、嗜好品しこうひん」など、食品の分類法はいろいろ存在するが、「音」が基準に持ち込まれたことは、世界栄養学史にもなかったと思われる。

【大阪城弁当のプロ】

 朝日放送がスタッフに配食しつづけた老舗仕出し弁当問屋「水了軒すいりょうけん」の大阪城弁当。

 水了軒が、震災時にでも突発的に大量に用意できた限られたメニューの一つだったため、スタッフは毎日昼にこれを食べることになった。あまりに毎日同じメニューなため、彼らは、

『ご飯の左上は焼き魚』

『その隣りは昆布巻』

『その隣りに大きさも形も同じふき』

 など、

「目をつぶっていても、どのおかずがどこに入っているかがわかるようになった」

 とのこと。

【八角弁当グルメ】

 朝日放送のスタッフが食べた弁当で、昼の大阪城弁当に対し、毎夜出されつづけたのが八角弁当。その名のとおり八角の器に入っている。

 毎夜、毎夜同じ味なので、せめて、角度を変えて食べることで、少しでも気分を変えようと努力したスタッフも。

【神戸名物・中華お粥かゆ】

 震災直後の阪神深江ふかえ駅(東灘区)前で、赤い提灯ちょうちんを吊るし、営業していた雑炊ぞうすい屋台の旗に書いてあったキャッチコピー。

 一杯千円という火事場泥棒の典型のような値付けだったが、味はよく、けっこう繁盛しており、取材に来た記者が怒りながらも、

「でも、おいしい」

 とほめてしまうなど、訳のわからない状況になっていた。

【アリバイは乾パン】

 震災直後の食べるものがなかったころ、とにかく大量の乾パンがさまざまなルートから避難所に届けられた。しかし、そのあまりの固さと味のなさに、

「いくら腹へってもこんなもん食えるかい」

 など、ひどく評判が悪かった。大げさに言うと、そこここに乾パンが投げ捨てられていたほど。

 しかし、他県からちょっとボランティアに来たくらいの人には乾パンは緊急事態を感じさせてくれるアイテムとなり、よろこんで食べられ、お土産にもされていた。

 会社を休んで来た人にとっては、

「本当に行ってきましたよ」

 というアリバイ代わりになるうえ、お土産代もゼロですみ、受け取った会社の同僚たちにも、

「へえ、これが被災者も食べてる乾パン? これがその味か」

 と一回だけなら珍しがられ、感激されて食べられていた。

【義援義理チョコ】

 地震からほぼ一ヵ月後、バレンタインデーがあった。

 会社によっては、

「義理チョコは控えましょう(本命はいいです)」

 と通達を出したところもあった。

 そのいっぽうで、デパートで売られている洋菓子の二〇パーセント以上がモロゾフ、ゴンチャロフなど本社が被災地のいわゆる神戸ブランドであることをあげ、

「こういうときこそ義理チョコもたくさんあげるべきでは?」

 と主張するお局OLもいた。

【嵐を呼ぶゆでたまご】

 須磨区のW小学校ではボランティア団体が大量のたまごを持ち込み、配った。

 ゆでた人が中華料理店の元コックだったせいか、

「半熟の具合がいい」

 と、大好評だった。

「なんでこんなうまいんや」

「あれは温泉たまごらしい」

「W小学校に地震で温泉が湧いたらしい」

「ほな入りに行こか」

 その結果、

「どこで湧いたんですか、校庭でっか、プールでっか」

 と、W小に問い合わせが相次いでいた。

【トン汁大行進】

「おにぎりとか冷たいもんしか食べてない。何か、温かいものを食べたい」

 という被災者の声を、くり返しテレビがすくい上げたため、救援団体はボンベを揃え、懸命に炊き出しを提供した。

 しかし、いかんせん、

「栄養があって、温まるものといえば……」

 みな考えることは同じで、初期のメニューはトン汁大攻勢となった。

 炊き出しを受けに来る被災者は誰も大きな声では言わなかったが、

「ええかげんにしてくれ! トン汁はもう、においかぐのもイヤや」

 という状態の人も多かった。

【炊き出し食い倒れ後】

 逆に二月中旬からは、お祭りの出店的な「おしるこ」「カレー」「やきとり」から本場・高松の人がつくる「讃岐さぬきうどん」など各地の特産、はては「神戸牛のステーキ」まである炊き出し天国に。

 炊き出しの人ががんばればがんばるほど、ますますおいしく、目先が変わるので、自力でご飯をつくれる被災者もついつくらなくなる傾向があった。屋台村感覚でボランティア団体を食べ歩く、震災食い倒れ族も発生していた。

【炊き出しバンク】

 被災者にとっての炊き出し天国は、炊き出す側の団体にとってのきびしい競争状態を意味した。

 各団体側から避難所に、

「どうでしょうかねえ、あす、あさってあたり、そちらで炊き出しさせていただけませんかねぇ?」

 などと電話で「営業」がかけられた。対応した避難所リーダー・S君によると、

「いやもう、ここんとこいっぱいなんですわ。えらいすんまへんなあ(お役に立てんで)」

 と辞退をくり返さざるをえず、気の毒だったという。

 東灘区のある公園避難所では二団体に来てもらって並んで料理させ、その意図はなくとも、しぜんに人気レースのかたちになってしまった。食べながら、

「炊き出しの鉄人や」

 と言って怒られた高校生がいた。

 二月下旬には、東灘区の赤塚山あかつかやま高校内など何ヵ所かに〈炊き出しバンク〉が設置され、炊き出す側のメニュー情報と各避難所からのリクエストを集中管理し、少しでも需給関係を改善しようという努力がなされた。

【昼飯は幸福に限る】

 西宮では「幸福の科学」が炊き出すカレーがおいしいと評判だった。

 近くでみずからも炊き出しをやっているボランティア団体からさえ、お忍びで食べに来たりしていた。

 最初はボランティア同士顔を合わすと気まずく、

「偵察や」

 と言ったりしていたが、そのうちおおっぴらになり、その団体内で、

「昼飯は幸福に限る」

 が合言葉になった。

【人類の進歩】

 朝鮮人が井戸に毒を入れた、などのデマがとびかった関東大震災。

 今回、長田では、日本人が朝鮮学校におにぎりを届け、韓国系被災者がそれを材料に使ってキムチ雑炊を作ってお返しをするなど、

「まあ人類、進歩はあったな」

 と言われていたが、南系と北系はお互い、

「日本人にはあげても、あいつらには食わせん」

 と仲が悪かった。

【見直し過ぎと違うか】

 JR新神戸駅の南側、国道2号沿いに、愛国団体の集まった「右翼炊き出し村」があった。「一人十殺」「悠久大義」などと白く大書したダークグリーンや黒の戦闘車が並んで、そばや茶をふるまう。

 ところで、そのすぐ南に、

「障害者たちの権利獲得のためには爆弾テロも辞さない」

 とまで公言する(もちろん冗談で)過激な左翼系の人々が運営している障害者施設がある。

 そこで働く活動家・M君は右翼の行動力に身近に接するうち、

「みどころあるわ。あいつらのがんばりはたいしたもんやった。そういう意味では今後右翼との共闘もありうるかもしれん」

 とまで言っていた。

【流通革命の恩恵】

 震災直後は、配給の物資は役所を通して避難所に届けられていたが、二週間ほどすると契約の弁当業者が直接届けてくれるようになった。この「直送流通革命」を最も喜んだのが各避難所に一ないし二名ずつ派遣され配給の管理にあたっていた役所の人。

「足らへんやろ」

「不公平な配り方すんな」

「こんなんまずい」

 などと罵詈雑言ばりぞうごんを避難民に浴びせられつづけたNさん(市役所OBでゆっくりと引退生活を送っていたところを急遽駆り出されていた)を見ていたボランティアのMさんは、

「あの人らは役所から避難民に差し出された人身御供ひとみごくうなんやなあ」

 と観察していた。

【日雇い弁当】

 灘区では配給弁当の避難所への「直送流通革命」が最後まで行なわれなかった。各避難所の担当者がターミナルまで取りに行く。あらかじめ登録してある避難民の数だけ配給されるので、登録が利権のようになり、「避難所に籍だけ置いておく」人までいたほど。それでも二ヵ月もすると自然に必要な弁当の数も減っていく。

 神戸大学の避難所では、どちらかというと被災者よりボランティアが食べるために配給に頼っていた。取りに行く係の一年生B君は、担当者に、

「二十個お願いします」

 と毎日やっていたが、

「あんたのとこ、減らへんなあ。誰が食べてんの?」

 と言われ、つい、

「自分らが食べてます」

 と正直に言ってしまった。

 担当者はむっとした顔をしたものの、

「今日はええけど明日からは自活してや」

 と言って二十個渡してくれた。

 B君らは、

「明日は『昨日もうあかん言うたやないか』と言われるかも」

 と、戦々恐々としながら、それでも毎日びくびくと、

「二十個お願いします」

 と言いつづけ、担当者も、

「今日は渡す。明日から自活してくれ」

 と渡しつづけた。B君らは、

「毎日が契約更新、日雇い状態やな」

 と言っていた。

【悪魔の飽食】

 弁当が余って捨てるのに苦労するようになっていた四月、西宮のA避難所に十時ごろ帰ってきた避難民サラリーマン二人が、

「弁当は?」

 と、管理担当に聞いたところ、たまたま残りがなかった。

 サラリーマンはあきらかに夕食を終えたうえ、一杯飲んでいたが、

「おれらのぶん探せ!」

 と言い出し、しかたなくほかの避難民も手伝ってあちこち探した。

 すると、担当者の一人が、

「どうせ捨てるんやし、もったいないから」

 と、かばんにしまっていたのが発見された。サラリーマン二人は、

「これはなんや」

 と言い出した。

 担当者も周りも、

「あんた食べて帰っとるやん」

 とは言えず、

「土下座せえ」

 とサラリーマンの言うまま、六十過ぎの二人の担当役人は土下座した。

 仮にもつい最近までバブルだとか金満とか言われていた日本で「弁当二つ足らん」と土下座させられた職員もたいへんだったが、その避難民はおさまらず、

「これを役所の上のほうとかマスコミに言うて『食糧問題』として取り上げてもらおう」

 と言い出したので、それまで黙っていた周囲も、

「そんなむちゃくちゃやがな」

 と、それは止めた。

【気配り的暴動】

 ロス地震などに比べて、阪神では略奪のようなひどいことはなかったと言われている。

 一日目、水を求めてさまよう被災者は、バタバタと道に倒れている自動販売機に駆けよった。そこからがロスと違うところで、阪神被災者たちは、

「WOOOO!」

 と絶叫するかわりに、

「皆さん、これは倒れておりますからもうもらっとってもいいでしょうかね?」

 とか、誰にともなく言いながら、ロスなればハンマーで叩き壊すところを、日曜大工のねじまわしのようなものでちょこちょこと開け、

 なお、

「まだたくさんありますから、どうぞ皆さんもお持ち帰りください」

 と、周囲に気配りしながら持ち帰っていた。

 パトカーも彼らを捕まえて蹴り回す代わりに、見て見ぬふりをして去り、シンポジウムでその状況を報告したジャーナリストも、

「私も一本もらいましたけど」

 と最後につけ加えるなど、みな大人であった。

【うがい】

「政府は何をやっとんのや」

「状況がわかっとらん」

 と、憤いきどおっていた筆者もそのじつ、とんちんかんさにおいては政府と大差なかった。

 一月十七日の夜、かかってきた神戸の友人がらの電話で、

「今日は何も食べてへん。水一杯飲んだだけやった」

 と聞いたのだが、その同じ電話で筆者は、

「栄養の足りてない災害のときは、病気が流行はやるんや」

 という、たいそうな前置きとともに、

「外から帰ったら、うがいを何回もやって、手洗いをきちんとしいよ」

 と注意した記憶がある。

 友人はおだやかに聞いていてくれたので、自分の政府並みの無能さに気づいたのは、翌日になってからであった。

【一瞬のビール】

 東灘区の被災者・T君は、ふだんから飲み歩きが好きである。

 地震直後からの避難所の世話役としての肉体の極度の酷使と、水分が補給できないことによる渇きで、しばしば、

「ビールをカーッとやりたいなあ」

 と強く思った。

 ところで、救援物資として避難所に運び込まれる水は輸送の都合上、ビール瓶に詰められ、ケースに並べられていることが多かった。

 T君は赤で『KIRIN BEER』のロゴと麒麟きりんの絵が入った黄色のケースが運び込まれるたびに、一瞬、

「ビールや!」

 と思った。が、全部水で、

「なんや水やったんか……」

 とは、T君を含め、誰もの頭を一瞬よぎるがなかなかそうは口にできなかった。

 五日目あたりになると遠目に銀色にピカッと光るものが目に入ると、

「『アサヒスーパードライ』か?」

 と期待してしまっていた。

 あるとき、発送担当者が気の利いた人であったらしく、一ケース二十本のビール瓶の水のうち二本だけ本物のビールが入っていたことがあった。仕分けをやっていたT君ら十人でひと口ずつ回し飲みしたその『スーパードライ』の味は格別で、

「こらもう最高の気配りや」

 と思ったという。

【日本一の度胸男】

 水と同じくらい必要とされたのが、水を入れて持ち運べ、溜めておける「容器」。

 灘区篠原本町しのはらほんまちには、山口組の渡辺組長邸がある。組員らは組長の私財で、大量の救援物資を用意。組長みずから物資や水を搬出入するなど、迅速かつ精力的な活動で、付近住民に大きな感銘を与えていた。

 ただその際、どさくさまぎれに渡辺邸からバケツをくすねていった市民がいたとのことで、救援を手伝った山口組組員をして、

「『ワタナベ』ゆうてマジックで大きく書いとるのに……。それにしてもウチの組長の家からモノ盗んでいくなんて日本一度胸すわっとるヤツやね。まあワシらにはぜったいまねできんわ」

 と驚きあきれさせていた。

【猫よけ震災対策】

 一九九四年ごろから、家の壁にペットボトルをたてかけると、猫よけになるとの説が紹介され、全国的に大流行していた。

 神戸もその例にもれず、多くの家の壁に一メートルおきくらいに二リットル用ペットボトルがつけられていた。あれが猫よけになったのかは大いに疑問が残るが、結果的に震災時の水溜め容器としては非常に役立ち、あっというまに神戸の家の壁からペットボトルは姿を消していた。

【はるかなるウォーターロード】

 ライフラインのなかで水道の回復が最も遅れたため、避難所に水のペットボトルが届けられると、いちばん歓迎された。

 ところで、日本で売られている水の一大ブランドに『六甲のおいしい水』がある。六甲とは神戸市において北を向くといつでも見える山のことで、

六甲で採水され

大阪の工場でパッケージに詰められ

東京あるいはよその地方で流通し

また六甲に帰ってきた

 と、その水のたどった道の壮大さもすごかったが、自分の家のすぐそばで採れた水を届けられ、涙して飲むことになるとは、なんにしても皮肉なことだった。

【震災使い回しグルメ】

 一度油を使ったなべを洗うのは、貴重な水をかなり使ってしまう。

 西宮の編集者・Aさんは試行錯誤のすえ、

「ベトベトのなべにごま油と余ったくず野菜とちょっとだけ水入れて、雑炊つくるでしょ。長ねぎと辛いもん入れるのがポイント。できたら朝鮮クッパ風でうまいうえになべもきれいになってる」

 と、調理となべ洗いを同時にする料理を開発していた。

 Aさんは、

「これが震災使い回しグルメナンバーワンやったね。こういうのは、伝承せなあかん。小林カツ代に研究してもらいたい」

 とまで言っていた。

【優しくって少しばか】

 震災から二ヵ月が経ち、いちばん遅いところでも水道が復旧したあと、春休みになって、

「たいへんでしょう?」

 と水を持ってやってきた女子学生がいた。

5 ボランティア図鑑 5 ボランティア図鑑

【固定観念ボランティア】

 ボランティアにやってくる人は、しばしば、

「ボランティアは肉体労働」

「被災者とのふれあいがある」

 との強い固定観念を持っており、世話人たちを困惑させた。

 彼ら『固定観念ボランティア』たちは、当然必要になってくる経理、名簿づくり、連絡事務などデスクワークを頼むと急にやる気をなくし、予定より早く帰ったりしてますます事務を混乱させた。

 結局彼らは被災者から「ありがとう」といった類いの感謝の言葉を言ってもらうことこそが目的であることはバレバレであった。

 被災者の側もそのあたりは見抜いており、

「こいつ、ぜんぜん役に立っとらんな」

 と思っても〝ボランティア〟で、

「ありがとう」

 と言ってやり、ボランティアを感激させ利用するという高度な対ボランティア技術を身につけていた。

【夜警ジャングルクルーズ】

 ボランティアが続々と日替わりのように入れ替わることがかならずしも罪ばかりだったわけではなく功の部分もあった。関西人には平素から「しゃべくりのプロ」のような人が多いうえに、毎日何度も新参ボランティアに業務説明をせざるをえないため、その「説明の語り」が芸の域に達していたスタッフも少なくなかった。

 筆者が三月に参加した泥棒よけの夜警のボランティアでは、五十晩以上やっているという専従ボランティアがいっしょに警備のポイントを説明しながら回ってくれたのだが、その毎晩何度もくり返しているのであろう一分のムダもない研ぎ澄まされたトークに驚かされた。

 四十メートル先まで照らすというダイバー用の超強力ハンドライトを片手に持った彼は、まずパッと一軒の家を照らしてみせ、

「ホラ、この家はなんともないでしょ」

 と言ってすかさず隣りの倒壊家屋にライトを移し、

「同じ場所やのにこっちはこれですわ。これが手抜き建築の典型」

 と解説したり、

「ここはどうも泥棒が来たらしい」

 と、さっと緊張感を高めたり、何の変哲もない空地を通り過ぎながら、

「このサラ地なんやったと思います? カラオケスナックやったんです。うるさいなあと思ってたけどこうなってみるとなんとも寂しいですねえ」

 など、硬軟、緩急自在、怖がらすところでしっかり怖がらせ、しんみりさせるところも挟み、ところどころ笑いをとりながら政府、建築会社、神戸市批判なども入れ、気づいたときには一回ひとまわり分の警備が終了している、という、ディズニーランドの人気アトラクション『ジャングルクルーズ』のお兄さんのトークのような完成度を見せていた。

 おそらく各避難所やボランティア受入れ場所のそこここに相当数の「知られざる話芸」が発達していたに違いなく、下手な落語などより、よほど保存する価値ありと思ってしまう。

【夜警・西部警察】

 格闘技マニアのS君は、火事場泥棒多発のニュースにいたく憤慨、何かできることはないかと警備のボランティアを志こころざした。「夜警がしたい」と避難所をまわり、ほかの仕事を言いつけられると拒否してけげんな顔をされながらも、みごと、東灘区魚崎北町うおざききたまちで、

「夜回りの人手が足りません。助けてください」

 という看板にめぐり合い、自警団に加わった。

 世の中には同じことを考えている人は多いらしく、そこにはケンカが好きそうな若者が看板を見て集まっており、百八十センチ前後のS君ら三、四人が道いっぱいに広がって警備をしていると、まるで往年の刑事ドラマ『西部警察』『Gメン75』のようで迫力があったという。

【にわかオウム諜報省】

 自警団は夜七時ごろから朝六時ごろまで、一時間おきに交代でまわるのだが、その待機時間中に一人がコンビニで『格闘技通信』を買ってきたとたん、

「お、それは……」

 とみんな集まり、それまで初対面の得体の知れない男同士、あまり口も利かなかったのが、

「いや、このときのK‐1、会場にいたんですよ、このへんです」

「えっ? 生で見たん? ええなあ。ところで佐竹のパンチって……」

 と初対面とは思えない意気投合ぶりで、深夜の格闘技座談会となり、

「レスリングと柔道はどちらが強いか」

「グレイシーは本当に強いのか」

 といった談義から、

「金属バット強盗団に遭遇したらどう対処するか」

「そのときの役割分担はどうするか」

 というシミュレーション、果ては窃盗団を捕まえてどうするか、関節を折るか首をしめて落とすか、まで話し合われた。

「つい十日ほど前、近くで泥棒捕まりよったんやけど、もうボコボコにして警察に突き出したんやて。半殺しよりは全殺しに近かったらしいけど、警察からはおとがめなしやったって」

 という発言があると、みなパッと顔が明るくなり、ますます高揚するという、まるでオウム真理教信者の溜まり場かなにかのようだったという。

 彼らは警備に出ても、

「おれたちがたくさんでいても泥棒は隠れるだけやから、一人が離れて歩いておびき出そ」

 と変な「工夫」をするなど、そのバイオンンス志向、凶暴さはふつうの窃盗団をはるかに上回っていた。

【名もない市民からの救援物資】

 半分以上ゴミ。二次災害。

 ボランティア界では常識らしいが、日本では雲仙うんぜん、奥尻おくじりと巨大災害のたびに、全国から古着などを中心に、

「捨てるぐらいなら送ってあげよう」

 と言わんばかりのガラクタ、ボロが送られてくるのが恒例になっている。

 ボランティアは「ゴミ」と「それ以外」に仕分けする、本来なら不必要な作業にエネルギーの大きな部分を割かれ、肝心の被災者へのケアが手薄に、という悪循環が起こる、と、これもまた毎度のことらしい。

「捨てるぐらいなら」ならまだいいが、しばしば「捨てるんだから」と送ってきたことがバレバレの、洗濯もしていない、たたんでもいないボロ古着が送られてきて、開封したボランティアをして、

「こいつ、ケンカ売っとんのか」

 と言わしめた。

 古着の中には、

「神戸の人たちを応援してます」

 と絵の具かマジックでメッセージを殴り書きしたTシャツなども。そんなものが着られるはずもなく、ボランティアは、

「こんなこと許されるのは、岡本太郎くらいや」

 と憤っていた。

 そういうのにかぎって、

「テレビを見ていて涙が出ました。がんばって」

 などと手紙が添えられていたりする。

 ボランティアはその手紙を読んで怒りの涙を流す……と、これも日本ボランティア史上では恒例のパターンらしい。

【次の震災のためのボランティア】

 救援物資の「救援さまたげ物資」であるゆえんは、ほとんどがゴミであるにもかかわらず、何パーセントかある「医薬品」「現金」といった、本当に救援になる物資の人った小包となんら見分けがつかないため、『ウォーリーをさがせ!』状態になること。結局、仕分けが終わり、有用物資が取り出されたときには、その避難所の被災者が半減しているという例が続出。

 筆者が震災二ヵ月後に手伝った避難所では、四階建ての公民館の一フロアーを救援物資が占拠、避難民もほとんどいなくなっていたにもかかわらず、仕分け作業は終わっていなかった。

 一見不毛な作業を続けるボランティアのリーダーに、筆者が、

「何でまだやってんの?」

 と聞くと、リーダーからは、

「次の震災があったとき、すぐ送れるようにしてるんですわ」

 という、美談なのか、錯誤なのかわからない答えが。いずれにしても、そうとでもみずからに言い聞かせなければ、とてもやっていられない無意味な作業で、筆者もガレキの街の中で黙々と『次の震災のためのボランティア』につき従った。

【なわ燃やし】

 震災満一年の一月十七日夜、御影の神社で行なわれたイベント。これを『NEWS23』が紹介。

「地域のために何かやりたい」

 という住民たちが、環境アーティストの指導のもと、全国から寄せられた古着をより合わせ、高さ十メートルほどの巨大なしめなわをつくり、夜、それを燃やした。炎のまわりを赤いはかま姿の巫女みこたちが舞う。それは、まるで、古代の儀式のような幻想的で情緒溢れる催しであった。

 環境アーティストが、燃えつきたオブジェのかたわらで、

「なわの『な』はあなた、『わ』はわたし、支援してくれた人とされた人の共生を表わします」

 と、解説していたが、支援古着地獄を知る者は、延べ数十メートルの巨大ななわをつくることができたボロの量から、住民が処理に困っていたことや、

「こんなボロ送ってきよって、はよ燃やしてせいせいしたい」

 との一石三鳥の狙いもあったであろうことを推察せざるをえず、あらためて住民に同情した。

【ファイナルファンタジーばあさん】

 救援物資が、送った人の予想をもはるかに超えて大活躍した例も。

『西神せいしん第七仮設』では、外は何もない原っぱ、近隣との交流はほとんどなし、三宮など街の中心地に行くには片道千円近くかかるため行けず、と、年金でつましく暮らす独居老人はすることがなく、ヒマと孤独をもてあましていた。

 おかげで、それまでさわったこともなかったのに、ボランティアが持ってきた救援物資の中古ファミコンで突如ゲームに開眼、左手親指にファミコンだこをつくりながら、一年でファイナルファンタジーⅠからⅡまでクリアした大正生まれの老女がいた。

【ボランティアのためのボランティア】

 仕分けにエネルギーの多くを割かれたのはボランティアそのものも同じ。次から次に来ては、気まぐれに帰っていくボランティアに手を焼いた団体、避難所は多い。

「おれらはボランティアのためのボランティアか?」

 と嘆く世話人も。長田区の避難所で世話人をやったN君の忘れられない人は、

「マキを割ってきてくれる?」

「はい」

 と出ていったまま、いまだに帰ってこない男子学生だという。

 一年経った今、N君は、

「さぞいいマキができてくるやろう」

 と待っている。

【ボランティアされるボランティア】

 まったく何の用意も心構えもなくやってきて、役に立たないまま、避難民に配給物資で食わしてもらい、寝場所をつくってもらったボランティアもいた。彼らのために、『ボランティア難民』ということばまで誕生していた。

【暴走族ボランティア】

「何でもやります」

「ぼくは何にもできないけど、なんかさせてください」

 という輩やからは本当に何にもできない人が多かった。

 いっぽうで、世話役をやったTさんを感激させたのは、

「スピードをこよなく愛するバイク好きの集団」

 だったという。

 静岡から来たという彼らは当初、どう見ても、

「ヤジウマで来たついでに何かやってみるかな」

 という感じがありありだった。彼らは炊き出し、マキ割りを頼んでも絶対にやらなかったが、代わりに、雨でTさんが、

「今日はもうやめまひょ」

 と言っても伝令、物資輸送など、バイク仕事は休まず見つけてでもやっていた。

 彼らのおかげで半壊の家でなんとか暮らす身障者にも水や食べ物、情報を届けることができ、相当数の人が助けられた。

【行きがかり上ボランティア】

 一九九五年一月下旬、京都から神戸市中央区の女友達を見舞いに来たM君は、女友達との再会を果たしたあと、喜びもそこそこに、帰路についた。しかし、寸断されつくした交通事情のため、夕方、芦屋市の手前でとても今日じゅうに京都にたどりつけないことをさとった。

 ホテルなどどこも営業しておらず、さりとて寝袋などの用意もないM君は夕闇とともに迫る寒さに生命の危機を感じ、近くの小学校に飛び込んだ。肺炎寸前の老人が寝込んだりしているなか、

「女に会いに来て帰れなくなりまして」

 と本当のことなど言えず、

「ボランティアに来ました」

 と言い、食事と毛布にありついた。べつに特殊技能のないM君は、その夜、子供嫌いにもかかわらず、子供担当に任ぜられ、いっしょに遊ぶことを余儀なくされた。

 学校もなく、退屈しているうえ、精神のバランスも逸している子供たちの間では『地震ごっこ』が流行っていた。箱に詰められ、無茶苦茶に揺すぶられるなど、おもちゃにされつづけたM君は、

「ものすごいしんどかった、京都まで歩いたほうがよかった」

 と語っていた。

【見かけ倒しボランティア】

 東京に住む格闘技マニア・F君は、ガレキの撒去にたいへんな思いをしている人々の映像を見て、

「オレならすぐ、やってあげられる」

 と密かに自負して神戸に向かった。F君はウェイトトレーニングを欠かさず、体重は八十キロ近く、筋骨隆々である。さっそく友人や知り合いの家の整理、引っ越しを手伝ってあげたものの、

「ベンチプレス七十キロ、5回×5セット」

「アームカール四十キロ、10回×3セット」

 など数セットだけなら力を発揮する盆栽のような筋肉は、

「三十分間五リットルの水を運びつづける」

 といった労働にはまったく役に立たず、すぐへばってしまった。

 そのうえ、ガレキはさまざまな形をしていて、つかむところがつくってあるわけでもない。指の当たるところはギザギザなど入って持ちやすくデザインされているバーベルやダンベルしか持ったことのないF君は、その意味でも「本番」では勝手が違い、「ポトン」と取り落としてしまい、見た目がたくましいだけに恥ずかしい思いをした。

【くじ引きボランティア】

 日本人は全員ボランティアに行きたがったかのごとく思われているが、全然そんなことはなく、〝行きたかった人〟と〝行きたくなかった人〟では後者が圧倒的だった。

 新宿区のN大学病院では、医師と看護師で十名の医療チームを結成、被災地に送り込んだ。

 このとき、病院は勤務扱いにしたものの、メンバー選びは難航。子供のいる看護師は外したりしたあげく、最後はくじ引きに。バスに泊まり込んでの現場での救急医療は予想どおりの激務で、『はずれくじボランティア』の看護師からは、

「結婚しとけばよかった」

 とその場にそぐわないボヤキが出た。

【仮面ボランティア】

 マスコミでは、ボランティアをする若者を取り上げて、

「彼ら若い人たちを見直した」

 という論調が多かったが、ボランティアとして被災地入りした真面目な若者の数と、被災地見物に来た若者の数とどちらが多かったかというのは難しい問題である。

 ボランティアで来た人間の中でも、真正のボランティアは半分を切るくらいで、あとは好奇心、怖いもの見たさ、話のネタに、的な動機の、事実上のヤジウマ=仮面ボランティアも多かったと思われる。

 心の底で自分がヤジウマであると自覚している人はまだいいが、問題なのはボランティアという〝自覚〟だけあって行動はフラフラと見学に走りがちで周囲をイライラさせる「人間的成長の途上にある人々」であった。

ヤジウマで来て

ボランティアをちょこっとやり

また見物して帰る

『変身・仮面ライダーボランティア』や『三泊二日ボランティア二日ヤジウマ』といった手合いもまた多かったと思われる。

 そんななか、大学生の知人が、

「ボランティア行ってきましたよ」

 と言うので、

「どうだった?」

 と聞くと、

「いや、たいへんでしたよ」

 と言う。

「何やってたの?」

 と訊きくと、

「仮設住宅をつくってました」

 と答えた。彼はどうもバイトとボランティアの区別がついていなかったようである。

【単位取得ボランティア】

 被災者の不評を買っていたトップは、避難所をブラブラするだけの、意図不明な学生で、世話人があまりのチンタラさに見かねて問い詰めると、彼らの一部にはある共通点が。

 彼らは東京K大の学生で、そこでは、後期試験の単位にボランティアが認定される決定が下されたため、試験のがれのためだけに神戸に来る学生が続出。留年を覚悟して取り組む者もいる他の学生ボランティアとの違いはきわだっていた。

 にもかかわらず、東京K大では、

「ウチはボランティアを単位に認めました」

 と大々的にマスコミに発表。三月末には「学生帰京報告会」を開催、マスコミ、一般人の高い評価を得ていた。

【オリエンテーリングボランティア】

 被害の激しかった地区を学生ボランティアたちが戸別にまわり、

「何かお困りではありませんか」

 と声をかけて歩く。声をかけられた者にとっては、じつに心強いもので、すばらしいことなのだが、それだけですまないのが被災者心理の複雑なところ。東灘区は、最も被害の多かった地域だったため、自然、彼ら戸別訪問ボランティアも多く見かけた。

 彼らは三人前後一組の若い学生たちで、紺色など地味な色のトレーニングウエアを着ていることが多いので、一目見ればすぐわかる。地味ななりをしているのになぜか彼らには華があってひどく楽しそうである。

 女二人男一人の組など、男はとくに楽しそうで、胸にボランティアと書いた白いゼッケンをつけているため、まるで、チーム対抗オリエンテーリングでもしているかのように見えなくもない。おそらく、ふだんそれほど行動的でない男子学生にとっては、他大の女子学生と知りあう千載一遇せんざいいちぐうのチャンスだったのであろう。

 道中笑いさざめく、そんな三人組も戸別訪問のドアをたたくときだけ急に顔を引き締め、こころもち暗い表情をつくる。

「あの、ボランティアです。何か困ったことがあったら何でも言ってください」

「あ、わざわざありがとうねえ。今のところ大丈夫です」

「あ、そうですか。では」

 で、ドアを閉めて、彼らはまたニコニコ顔に戻り、歩きはじめる。一部始終を見ていると、おもしろいような、ねたましいような気分にさせられ、ちょっとした見物ではあった。

【おとぼけ】

 被災者の発達させていた対ボランティア技術の一つ。やむにやまれぬ気持ちで駆けつけた若いボランティアたちは、こまめに体育館内をまわって避難民の要望を聞き、何かしてあげようとする。

「子供の紙オムツないやろか?」

「履歴書の用紙買ってきて」

 と私的なお使いを頼まれることも、珍しくなかった。被災者にもいろいろな人がおり、心やさしいボランティアが、

「はい、午前中言っておられた紙オムツです」

 と持っていくと、

「ありがとう。ほんま助かるわあ」

 とすかさずオムツ替えの作業に入り、ボランティアに、

「○○円でしたので」

 と当然請求されるべきお金の話にもちこませなかったりする。

 十八、十九歳の気の弱い女子大生ボランティアなどそこでお金の話などできるはずもなく、胸にしまってその場を去ることになる。たまたまいっしょにいる友人ボランティアなどが気を利かせて、

「あの……お金よろしく」

 と口を添えても、おとぼけ被災者は、

「えっ……」

 と、いったん間を置いて、

「あ、そうやった、そうやった」

 とようやく払うという、ねばり腰を見せていた。

 二月上旬あたりから来る新参ボランティアには、

「これはぜったい被災者には見せないで」

 と注意してから「諸注意点」が手渡され、その中には、

「おつかいを頼んでお金の話をしない避難民がいますが、お金はとりましょう」

 としっかり書かれていた。

【言葉の壁】

 外国人ボランティア・S氏は、路上に窒息状態で倒れているおばあちゃんを発見。

 医療の心得のあるS氏はただちにマウス・トゥ・マウス(口移しの人工呼吸法)を行なったが、通りがかりの日本人はそれを変態行為と見なして、S氏に襲いかかり、ボコボコにしてしまった。

【隣人愛】

 カトリック教会では、日本を東京教区、大阪教区など十六に分けている。

 クリスチャンのYさんは、東京教区の本部教会に、

「どうしたらいいでしょう? ボランティアかなにかしたいのですが」

 と電話したが、

「……え、教区が違いますので……」

 と要領を得なかったという。

「汝の隣人を愛せよ」

 とは『旧約聖書』の言葉だが、

「隣人の隣人の隣人の……」

 となると、やはりなかなか難しいようである。

【長期ボランティア=任侠論】

 山口組が大がかりにボランティアをやったというのが、感動的ニュースのように取り上げられていたが、筆者は避難所でボランティアに参加してつくづく思ったが、ボランティアとヤクザは本質的に同じものである。

 ボランティアはとくに長期になればなるほど、専従であればあるほどヤクザとの共通点が増えてくる。

・定職がない(時間がある)

・世のため人のためが看板

・徒党を組みたがる

・行政に頼むと時間がかかりすぎたりやってくれないことを、カオを利かせたりさまざまな仲介を経て解決してみせる

・見返りのことはいちいち言わないが、彼らにも生活があり、結局ただで放っておくわけにはいかない

 など、十年もボランティアだけをやれば、その人は十分ヤクザで通用する。

 逆に、山口組がボランティアをやったのは、任侠道とは、つまるところボランティアであるともいえ、もともと何の不思議も違和感もないことであった(もうひとつ言うと政治家も)。

【マーケティングウォーズ 人心収攬術しゅうらんじゅつそれぞれ】

 多数のボランティア団体がほとんど同時発生的に狭い地域にゼロから出発して一種の競争をくりひろげたため、それをマーケティングとして見た場合、なかなか興味深い現象が起こった。

 その戦術パターンは、

〔ものを配りまくって人心収攬をめざすバラマキ行政型〕

 G村のように、常時炊き出しはするわ、雨が降ったといってはビニール傘を配るわ、来村者には散髪無料などと、有形無形の財・サービスをばらまきつづけ、たまりかねた近所の理髪店から怒鳴りこまれる。

〔何をやるにもまずメディアに言ってからやる、対マスコミ有言実行型〕

 団体内の役職名に「会長」「会計」「夜警」などに交じって「情宣」「広報」などがある。

 ちょっと仮設をまわるにもすぐ新聞記者の同行をとりつける。被災者へのケアと報道陣へのケアが同じくらい。東京K大のボランティアチームのように、しまいにはマスコミの中でだけバーチャルに存在し、地元では、

「そんな人ら知らんわ」

 と言われたりする。

〔ネーミングのセンス型〕

 同じようなことをしていてもそれをどういう名称で呼ぶかで、周りの印象も、やっている本人たちの気分も、ひいては新しいボランティアを呼び集める力もぜんぜん違う。

「神戸元気村」あたりが勝者。「たまらなコウベ」にはボランティアが集まらず。土、日に仮設をまわってケアする「週末ボランティア」は折りからのオウム騒動で「終末ボランティア」とまちがわれ、仮設の自治会長から「うち宗教お断わりや」と言われるなど損をした。

 ……など、マーケット攻略法のそれぞれとして見ても、バラエティに富んだものであった。

【斑点ボランティア】

 外部からある地域に来て、そこのコミュニティにとけこもうとするとき、子供たちと仲良くなるのがいちばん手っとりばやい、というのは文化人類学のフィールドワークから導かれた法則で、今回、ボランティア団体が避難所の人々にとけこむ過程でも共通して見られた現象だった。

 ただ、子供たちと仲良くなろうとするあまり、どんな遊びにものってやり、けっして叱らなかったため、「仲がいい」を通り越して、「なめられている」としか言いようがない状態になったパターンもあった。

 灘区のある小学校ではR大のボランティア学生が寝ている間に、顔じゅうマジックで斑点を書き込まれたりしながら、

「やっととけこめた」

 とボランティア日誌に書き、

「仲良くなれた」

 と、言いはっていた。

【マルハネ】

 ボランティア団体に対する「だまし」「利用」も多かった。

 引っ越し業者がボランティア拠点に行き、

「県外に立ちのこうと思ってますねんけど、手が足りんで……」

 と、若者を数人回してもらいタダで人手を確保し、客に対しては、

「こういうときやし、半額サービスですわ」

 とやったり、労働者の派遣業者が、建築業者からふだんどおりに、

「アルバイト××人三宮駅北側の△△ビルに」

 と請け負い、それをそのまま事情にうといボランティア団体に回し、全員の日当をまるまる懐ふところに入れる、ピンハネならぬマルハネなどが横行した。

【善意とだましの重層構造】

 山梨からボランティアに行った大学生・I君は、YMCAから、被災した外国人向けの仮設住宅をつくる、と言われ、張り切って作業し、一日の仕事を終えてはじめて、

「ああ、これは完全に業者の下請けだったな」

 とさとらされ激怒した。

 納まらないI君が調べてみたところ、

YMCAが外国人被災者用住宅をつくる計画を善意で立て

当然素人ボランティアだけではつくれないため、プロの建築業者にビジネスとして発注

労働者調達役が別のボランティア団体から、だましで学生を連れてくる

学生ボランティアはボランティアと信じて善意で取り組む

 と「善意」→「正当なビジネス」→「だまし」→「また善意」、と重層構造になっていて、だまし業者にしても、

「人のために何かするのはいっしょじゃないか」

「どうせボランティアは余っとったやないか」

 と理論武装していて、それはそれで当たっていたため、I君は訳がわからなくなった。

「もう二度とボランティアなどしない」

 と大人不信に陥っていたI君だが、半年後たまたま建設の現場を通りかかったところ、そこには本当に住宅が完成していて、東南アジア系の子供が家の中でゆっくりしているところが垣間かいま見え、I君は、

「それはそれで、そこはかとない満足感はありましたけどね」

 と言っていた。

【紙爆弾・日誌は火薬庫】

 ボランティア日誌は、

「木村さんに大声出された。あの人、へんです」

 といった〝本音ベースの愚痴ぐち〟や、

「吉田のおやじさんの小言は逆らわずに適当に聞いておくこと」

 といった〝実用的なアドバイス〟を書き散らした、本来なら内輪だけで回覧するものである。なのに、避難所になったK大学の体育館では、出入り口近くに設けてあった受付用机の上になにげなく置いてあったこのボランティア日誌を、これまたなにげなく通りかかった避難民がパラパラと見てしまった。そこに書かれてあった本音(避難民からすると悪口としか思えない)の数々に、

「なんと口はばったいやつらや」

 と怒った避難民側は、そのボランティア団体を追放してしまった。

 ボランティアたちは、

「ボランティア日誌の管理は厳重に」

 という教訓を得たものの、時すでに遅かった。

【経費ボランティア】

 必要なものは領収書さえあれば、カンパの金を自由に使って落とせる、経費天国的状況も発生した。

 とくに初期は「必要なもの」の定義が曖昧あいまいで、資金的にもカンパも入りやすかった。西宮の「A」では、やってきたばかりのボランティアが、

「記録とっときたいからちょっとカメラ買ってきて」

「はい」

 と、ライカ(ドイツの高級ブランド)を買ってきたりしていた。

 落ち着いてきてボランティア団体間の交流、公的支援に向けての団結がめざされるようになると、ボランティア団体員が別のボランティア団体の人と飲み(それはそれでもちろん意味があったが)、経費で落とす『ボラ︱ボラ接待』も発生した。

【出家ボランティア】

 大阪府の電気店でサラリーマンをやっていたBさんは会社を休み、妻も子も捨て、三宮の救援物資仕分けセンターでボランティア活動に従事。たいていのことには驚かなくなっていた神戸新聞記者をして、

「何がそうさせるんや?」

 と絶句させた。

 Bさんのような「出家ボランティア」とまでいかなくても、

「大学(院)を留年(中退)して」

「妻を残して単身乗り込んでます」

「住民票、神戸に移しまして」

 といった真剣な人々は多かった。彼らは初期には、

「あの人らは志願難民や、えらいなあ」

 と、尊敬されたが、一年、二年と時間が経つにつれ、もともと心配してもらっていた側の被災者から、

「あの人ら生活どうしとんのやろ?」

 と、心配されていた。

【いきなり政治ばなし】

 実際、生活の問題はボランティア同士でも、なかなか口にできない話題だった。二年目、震災イベントなどの取材の折り、

「二次会は飲み屋で……」

 ということになって、各団体の専従らしいボランティアの人と飲むことになり、

「震災まではどうなさってたんですか?」

「フランス核実験反対の運動をやってましてね」

「死刑廃止を……」

 と、言われても、

「それでどないして暮らしてます?」

 とは初対面では飲んでいてもなかなか訊けなかった。

 ふつう、親しい間柄でなければ政治の話題はデリケートなので避けるのがマナーとされるが、震災ボランティア団体がらみだと「生活ばなし」がタブーすぎるので、しかたなく、

「やはり今の自民党政治が……」

 などといきなりハードな政治ばなしをせざるをえない傾向があった。

【知られざる朝生あさなま】

 ボランティア団体のプレハブで夜まで取材していると、遅い晩めしを兼ねた酒盛りになることが多い。

 二年経ってもボランティアしている人々はしばしば左翼的かつ議論好きで、飲み会がそのまま『朝まで生テレビ』風になり、

「公的補償もやっぱり土地のからみで出るでしょ、あれも土地や建物とかやなくて、実質的な、たとえば部屋単位にせな、いつまで経っても土地の値段とかしがらみとかに日本人は振り回されつづけるよ」

「うんうん、ヨーロッパとかやったら土地を持つことに対して税金厳しいでしょ」

「そうそう、日本も保有者に、そうやね、10テンパーとかコンマ何パーでもいいや、どのくらいかはかけてね……」

 と、十一時近くになると税率まで決めかねなかった。

 筆者はそれなりに面白い内容だと思ったので、

「あとからちょっと原稿お送りして見てもらいたいんですけどね、名刺か何かいただけたら」

 と言うと、若い二人からは、

「あっ、ぼくフリーターというか、何もしてないんです」

「私バイトで名刺ないんですわ」

 と言われた。

 名刺をくれた小松左京、堺屋太一風三十代の人々のを見ると、『エディター』とか刷ってある。

「本当になんか編集されてるんですか?」

 とか訊けるはずもなく、筆者も『ライター』と手書きの名刺を差し出した。

【こざっぱりした『コロンボ』】

 ふつう取材というと、きちんとしたスーツ系の格好をするほうが誠意が伝わってうまくいきやすいが、震災関係の運動家たちの前でスーツは場違いすぎて、こちらが気後れしてしまう。

 筆者は何度も通ううち、安っぽい感じの、ちょっとうだつのあがらない、「こざっぱりした『コロンボ』風」がいちばん取材がうまくいくことに気づいた。

【右翼の手のひらで踊る左翼】

 実際、どのボランティア団体も交通費、拠点のプレハブの光熱費、専従者の生活費、と経済的にたいへんである。

 細々としたカンパなどでは、とてもやっていけず、その主な財源は、「日本船舶せんぱく振興会の日本財団」「阪神・淡路コミュニティ基金」「トヨタ財団」といったところにスポンサーを頼むこと。

 モーターボートレースの日本財団はうまくすると数十万単位で助成金をくれるので、頼りにされていて、各ボランティア団体をまわると、

「どういうふうに申請書を書くと、金が出るか」

「活動の具体例を書け、形に見えるものを示せ、人名を出せ、写真貼れ」

 といった、

「日本財団からの金の引き出し方」

 の話題がよく出ていた。

 しかし、この日本財団、「ある大物右翼が戦争のドサクサとバクチの儲けで始めた」財団である。

 基本的に左翼ベース市民運動路線の各団体が、「水俣みなまたの被災者と連携を」「地球環境を守ろう」と主張しながら、右翼の大元締めや、大企業、それも排気ガスの大本おおもとの自動車会社に揃って助成金を申請するさまは、客観的に見て興味深いものだった。

【縄張りシマ争い】

 助成金をもらううえでぜったい必要なものが「実績」。

 それも、

「訪問すると被災者が明るくなった」

 といった抽象的なものではだめで、

「この地域を定期的に巡回訪問してケアしている」

「西神第○仮設で毎月祭りをやっている」

 といった目に見える具体的なものであることが必要。

 この「実績」をつくり、維持していくためには、あるていど排他的なテリトリーを持たざるをえない。別のボランティア団体がテリトリー内の仮設に来て、被災者に声をかけたりしはじめると、先住団体が、

「来ないでください」

 と直接言ったり、仮設自治会長に、

「ウチはもういいから」

 と言わせたりしていた。

 しかし、

「ここの住民はウチが責任持ってちゃんとするから」

「ここの祭りはウチの仕切り」

 などと言うと、なんとはなしに「テキヤ」の縄張りめいてきていた。

 また、本来はボランティア団体、被災者に向けて発行される「○○通信」といったミニコミも、

「こんなことやってます」

 という財団向けのアリバイづくりのために出される傾向があった。

 また、「写真資料」としてところかまわず撮影する傾向があり、「被災者交流会」を開催するのはいいが、狭い会場でバシャバシャとフラッシュをたき、ビデオを回すので被災者のおばあちゃんが、

「こんなんで、ざっくばらんに交流をとか言われても……。あたし、被災者として顔撮られるのいややのよ」

 と、愚痴っていた。

【イベントでもじゃまボランティア】

 地震から一年後の一月十七日前後、多くの記念イベントが開かれた。

 筆者はいくつか参加したが、客の入りはどうもいまひとつで、三大新聞で告知していたようなイベントでさえ、身内同士の記念集会のような雰囲気で、部外者が一人で行くと、狭い会場で浮いてしまい、居心地がひどく悪かったりした。

 そんななか、避難所になったR小学校の記録ビデオの上映会では、そこでボランティアをちょこっとやったらしい大学生たちが二十人くらい見に来ていて、ガヤガヤとしゃべりつづけ、休憩時間が終わっても外でダラダラしていたため、主催者が、

「あんたたち、何しに来たんですか?」

 と会場の外まで行ってもめていた。

【被災エリート】

 被災シンポジウム・イベントでは、参加人数が少ないこともあり、司会者から突然、

「では、せっかくですから、みなさん一言ずつ」

 とマイクを回されたりする。

 主催者側のパネリストも含めてその発言力にはある種の序列があり、そういうとき最初に、

「えー、長田区から来ました○○です。家が全壊しまして……」

「西宮で被災しました。あの日から一日六時間以上寝たことありません。今日も仮設から来ました……」

 などと、当事者である事実や、とくに被害がひどかった地域名などをガツンと出されると、みんなそれだけで黙って聴きいり、討論での反論力も強くなるのであった。

 逆に「姫路市から」とか「東京から……」とか言うと、どこか軽く見る雰囲気がそこはかとなくただよい、発言者はそれにたえきれなくなるのか、

「ボランティアを三ヵ月くらいぶっつづけでやりました」

「当日は電話のコールを十時間続けました」

 などと、熱心にボランティア度、心配度を披露する傾向があった。

 それはちょうど日本社会における学歴に似ており、被害はじつはそんなに変わらないにもかかわらず、マスコミでの被害の伝え方に比例して『長田区出身』が被災言論界における東大に位置し、次いで『東灘区』『現在仮設暮らし』あたりが続いていた。

 筆者はどうもこうした被害自慢、被害比べめいた発言力確保を苦々しく思っていたが、いざマイクを渡されると、

「東京に住んでまして、震災笑い話取材に来まして」

 などとは口が裂けても言えず、

「実家が東灘区で︱︱」

 と神戸弁で説明し、いちおう「被災エリート」の座を確保したものであった。

【吉本よしもとの文化】

 イベントとしてはいまひとつ、悲惨強調ばなしの多かったなか、その独立したトークとしてのレベルの高さに驚かされたのは、東京・中野区で行なわれた「語り部キャラバン」で二番目に登場したF氏の講演であった。

 一九九六年一月十四日の日曜日昼過ぎに始まったキャラバンは、しょっぱなから避難した主婦六人が壇上に立って涙を流して状況を語り、会場のそこここから嗚咽おえつが聞こえる、という、予想していたとはいえ、それをもはるかに上回るヘビーさで始まった。

 四時間のイベントの最初からこれだけ話者も客も泣くということは、これからどんな会になるのかと呆然としているなか登場したF氏は、まずスッと間をとり、

「十人がせいぜいや言われて来ましたけど、ようけ来てくれて……。日曜日ほかに行くとこなかったんかいな」

「こんな話題やから明るい話でいきたいと思ってます。なんで私の頭見まんねん?」

 と自らの毛のない頭に手をやるなど、徐々に緊張をほぐしたところで、

「いっしょに防災訓練しましょ、なんて言うてもそれは非現実的です。いっしょにカラオケ行きまひょ、言うて地域の人間と顔見知りになっとく。とりあえずはそれでええんやないかと思うんです」

「あかん思ても声を出すことが大事です。のこぎりがあれば助けられるゆうとき、大声で『のこぎりないか?』言うたら、たまたま通りかかった知らん人でも、何とかして見つけてくれたりしてました」

 などと、防災のポイントもきっちりと押え、その合間も、

「横におりましたべっぴんの妻に……」

「二階におりましたこれまた美人の娘に……」

 などと、ワンポイントの「ほぐし」も入れながら最後に友人を悼いたむ短歌を一首詠よみ、涙をぬぐいながらサッと壇を降りる、と、その構成は完璧で、会場は、

その前のシンポジウムの涙

F氏のトークで爆笑

最後のエピソードと短歌でまた涙

 とわずか十五分少々のトークだったが、完全にF氏とともに笑い、泣いていた。

 震災に関しては、部外者であるという意識にさいなまれがちで、ただでさえ笑うなどもってのほか、と思い込みの強い東京人を、なおかつ、ほんの一分前まで泣いていた聴衆を、反感も抱かせず爆笑状態に持っていき、きちんと防災ポイントを伝えながら、最後に急転直下泣かして締める、など純粋に日本語を使う技術として見てもものすごいことで、筆者はうならされた。

 キャラバンが終わり、中野ゼロホールをあとにしてJR中野駅に向かうF氏のあとを通行人のふりをしてついていくと、F氏たちは、

「昨日より組み立てがほぐれてましたな(その前日、同じイベントを墨田区でやっていた)」

「そうやろか? どっちがええかなあと思っとったんやけどね」

「よかったです、よかったです」

 と、しきりとトークにさらなる磨きをかけていて、そのやりとりは熱心なお笑いタレントと吉本興業の敏腕マネージャーといった雰囲気で、筆者はもう一度感動した。

【あほイベント】

 大学生のやる「神戸をふりかえる」的なボランティア集会は、イベントとして崩壊しているものがあった。

 二年目の一月、東京K大で行なわれたイベントは、一時開始と新聞の都民版に告知してあったが、二時近くになっても始まらなかった。たまりかねて筆者が、

「いつ始まるんですか?」

 と受付に聞くと、

「先生が来ないんでわからないんです……」

 と、はなはだ頼りない。

 二時ごろ、やっと開始すると、今度は休憩が入らない。寒いなか、マスプロ用の大教室で開催されていたため、足もとの冷えこみはただごとではなく、参加者は次々と苦しそうにトイレに立っていた。筆者は、

「これで『被災者に思いやりを』とか言っても説得力ないわ」

 と、思った。

 このイベントは、「いま、神戸に何ができるのか?」というテーマだったが、壇上で語るボランティア経験学生からして、

「ぼくたちまだ被災地のこととかボランティアとか何もわかってないけど、一生懸命……」

 みたいなことばかりをくり返し、発言の最初と最後に、

「まあよくわかんないんですけど」

 をかならずつけ、いいかげん、

「何かわかれよ」

「わかってからイベントやってくれ」

 と言いたくなった。

【面白イベント】

 そんななか、二年目五十回を迎えた「語り部キャラバン」にふたたび行くと、時間的にも圧縮され、さらに面白くなっていた。

 一年目の会では、「建築家のOさん」が話術的にはやや劣るかなと思われたが、一年ぶりに目黒区の市民ホールで見るOさんは、冒頭から、

「私は中学二年のとき、初恋をいたしました。その相手のTさんは、目黒区に転校していき、私のはかない恋は終わりを告げたのであります。その恨み重なる目黒区で、なんでみなさんに生き残りの技術をお話ししなければならないのか、私の心中をお察しください」

 と、ツカミも万全で、Oさんは「一人ピンのタレント」として独り立ちしており、筆者も陰ながらうれしく思った。

【政治姿勢クロスワードパズル】

「被災者への公的支援を求める会」といったイベントテーマはわかりやすいうえ、大同団結しないわけにはいかないテーマであるため、与野党を問わず政治家、各種市民団体からたんなる一般の人、過激派まで一つの会場に集う日本政治史上にも珍しい場面が見られた。

 豊島としま区民センターあたりでこうした会が開催され、

「二次会はざっくばらんに近くの『庄しょうや』で」

 ということになり、ついていくと、主催者側、熱心な参加者いりみだれて、

「とりあえず席について」

 と、店に入った順に八人一卓の席などにつかせられる。

 もちろん会派ごとに「保守」「極左」「右より中道」などとゼッケンなどつけているわけでもないため、誰がどういう政治姿勢を持っているかは皆目わからない。主催者側からしてふだんはあまり交渉もない団体が五つほど共同してやっていて、お互いあまり話をしたこともなかったりする。

 このときの緊張感は相当なもので、

「いったい誰が注文をとるのか」

 から始まり、

「いったい誰がどこの会派で、この中のどの人の会派と仲がよくないのか、それによって今言ってはいけない単語は何か」

 をはじき出すため、数少ない知り合いの運動家の話す相手、その話し方、誰としゃべらないかから、

「今、右に座ってる『P』の人はその隣りと前から知り合いのようにしゃべっているということはPの右側はかなり左寄りということか……」

「今、前の人に『飲み物なんにします?』と聞いた。前の人もかなり左か、いや飲み物聞くくらいは敵対しててもするか……」

 など、その飲み屋の自分の席の周りの人の政治姿勢をさぐる「政治的クロスワードパズル」はひどく疲れるものだった。

【話題スケール縮小化の法則】

 逆に二十人ぐらいで飲み屋などに行き、座敷の大きな長方形のテーブルの前の席につかせられると、最初は発言者は一人ずつ、

「公的支援をどうするか」など国家的なスケールの大きな政治経済話

四人ずつぐらいに話題がばらけはじめ、「Dは資金的にたいへんになってきてるらしい」といったボランティア団体内部の状況分析報告

ボランティアリーダー個人の「ぼく、生活が苦しい」的なぶち明け話

別の団体の個人の「︱︱君は気分にむらがあって難しい」「△と×はつきあってて最近うまくいってない」的な噂話

 と、時間が経つにしたがって座がバラけ、話のスケールが小さくなる傾向があった。

後半部分はこちらから


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