
大震災名言録 第1章 男と女と震災と
1 男と女と震災と
【人生のダイヤ】
阪急電鉄神戸線をボーダーに、そこより北の地域に住んでいた人は、「えらい激しい地震やった」ことはわかっていても、べつに周りの家も大丈夫なうえ、テレビも映らないため、「大震災」であることがわからず、七時ごろに出勤しようと家を出た人も少なくなかった。
K君もその一人で、何の変哲もない紺色の背広に髪を整え、茶色の革のサラリーマンバッグ一つを持って阪急岡本駅に行き、駅員に、
「ダイヤそうとう遅れますよね?」
とたずねた。
するとその駅員にすかさず、
「きみ、ダイヤどころやない。みんな人生のダイヤ狂ったんや」
と返されたという。
【話半分】
1 阪神高速
2 三宮さんのみやの新聞会館(東京でいえば有楽町マリオンのようなもの)
3 大阪の通天閣
4 奈良の大仏
がこけた、という噂が震災の直後に流布るふしていた。四分の二は的中していた。
【人とネズミの山椒魚】
灘なだ区の木造二階建て下宿が倒壊して、半日閉じ込められていた神戸大生・N君は、埋まって五時間ほど経過したとき、頭のほうでネズミがチュウと力なく鳴くのが聞こえたそうである。
N君にはそれは励ましにも、また、
「ネズミさえ這い出ることができないゆうことか」
という絶望のサインにも聞こえた。
【楽観的思いやり】
神戸在住のDさんはテレビを見ていて地震に直撃された。
床に落ちたテレビから、
「落ち着くようにお願いします」
という音声だけが聞こえ、画面は真っ暗なのを見て、
「スタジオの照明が壊れたんかなあ。テレビ局はたいへんや」
との感想を持った。
実際のところ壊れていたのは自分の家のテレビのほうであった。
【空港本線料金所】
ゲートを抜けて間もない地点で倒壊が起こっていたにもかかわらず、入口料金所は地震発生直後もしっかり六百円の料金を取りつづけた。
【ブルーライト・タカラヅカ】
宝塚たからづかの木造二階建てのアパートに一人で暮らすH君は、揺れが収まった真っ暗な室内で懐中電灯もないことに気づき、途方に暮れた。
アイドルおたくでコンサートにもよく出かけるH君は、とっさに取っておいたイベント用の蛍光ペンライトを折って発光させた。
自分の思いつきに我ながら感心したH君だったが、幻想的なブルーのライトに照らし出されたアパートの中は、壁はほとんどひびだらけ、床は傾いていて、H君はなす術もなくまた布団にもぐりこんだ。
【決意】
中央区の開業医。Yさんは揺れが収まった室内で時計を見て、
「まだ六時前か。診察に差し支えるから、こらなんとしてももう一回眠らなあかんわ」
と、決意し、無理にでも眠ろうとしつづけた。
【誰にも言えない】
東灘区に住む独身の若手サラリーマン・K君は熱帯魚のグッピーのマニアである。ただ飼うだけでは飽き足らないK君は、ブルーのラインが異なる種類をかけあわせ、オリジナルのスペシャルグッピーをつくろうと努力している。
地震の直撃でグッピーの入った三百リットルの水槽も倒れ、砕け散り、グッピー十七匹は散乱した部屋のそこここでピクピクはねていた。
その結果、K君が地震直後、いちばん最初、かつ全力を投入してやったことは、「グッピー探しと救助」であった。
十七匹中十五匹救助成功という、きわめて高い救命率だったが、K君は、
「こんなことはぜったい人に言えん話や」
と自覚している。
【油断断水】
大手石油会社の営業マン・Mさんは、宝塚・逆瀬川さかせがわの戦前に建てられた木造の独身寮に住んでいる。つねに「この寮はボロボロやなあ」との意識のあったMさんは、地震で目を覚ましたときも、
「このボロボロなとこでさえ大丈夫だったということは、たいしたことはないんやろう」
と判断、もう一回眠った。
いつものように七時に起きたMさんは、断水に気づかないまま習慣になっている朝シャワーを浴びた。きれい好きのMさんがゆうゆうと二十分浴びたあと、二人目の途中でタンクにあった水が切れ、そのあと二ヵ月、水がこなかった。
【ボケてみせる浦島太郎】
「一月十七日、村山首相は何ひとつ事態がわかっとらんかった」
「国土庁の職員は、あの日定時で帰った」
など、「十七日の政府のわかってなさ」の例は数限りなくある。
しかし、震度7に直撃され、家がつぶれて閉じ込められたほどの人でさえも、しばしば事態の重大さはわかっていなかった。
十七日の昼ごろ、ある十代後半の少年が、倒壊家屋から元気に救助されるさまがテレビで生中継されたが、その少年も浦島太郎状態で、見守っていた人たちと、
「全然大丈夫や」
「おい、これテレビで全国に流れるぞ。関西人やねんからなんかボケてみせ、ボケてみせ」
「ほな、ちょっとつまずいてみよか」
などと言葉を交わし、救助した友人ともどもまったく全体の状況がわかっていないことを全国に知らしめていた。
この映像は、その日の午後、三回以上流された。しかし夜になって「今日一日をふりかえる」ダイジェストになったころには、テレビ局も含めてたいへんな事態であることが完全に認識されており「ボケてみせ」などはいっさいカットされ〝つらそうな救助された人〟に一変して短く紹介されていた。
生中継のときから夜のダイジェストまで全部見ていた東京在住のN君は、当然だと思ういっぽうで、その編集技術にも驚かされた。
【ワンポイントアドバイス】
「おれはよめさんの名前を呼んだ。呼んだと思ってたけど、呼びつづけてたけど、どうも違ってたんやね」
と後悔する長田ながた区のOさんは、
「名前まちがわんようにすること、これが災害時の最大のポイントやった、ゆうことですわ」
と、ふりかえっていた。
【花の大阪】
十七日、バイクを使って、なんとか三宮の会社に行ったK君によると、その日の三宮の大きな特徴は、
「歩いてんのはほとんど全員男だけやった」
という点だったそうである。
五日後、買い出しに行った大阪では、OLが、赤や青の派手なコートと、金の留め具のついたハンドバッグなどを持ち、関西的な派手なメイクとピアスで、ふつうに闊歩かっぽしており、神戸のノーメイク女に見なれていたK君は、大阪の女性がみんな美しく思えたらしい。
「今ならこのなかのどの子とでも結婚できるわ」
と思ったそうである。
【地震浪漫ロマン燃ゆ】
今回のことほど「大きなきっかけ」はなく、筆者の知る範囲でも一九九五年の一月中に三カップルの間でプロポーズがあった。
つきあっている恋人同士が、
「二人とも生きてたし、ここはやっぱり……」
というのはよくわかるが、変だったのは、べつにつきあってもいない男が、大学時代の同級生の女の子に電話し、
「無事やったんか、よかったよかった」
から入り、その通話中にプロポーズしたというケースであった。ほかにも、昔つきあっていた女の子から、
「大丈夫やった?」
の電話が入り、それがきっかけでつきあいが復活した、という追憶・再会バージョンも。筆者の知るかぎりで三組ということは、神戸全体ではものすごくたくさんの数のカップルの間が進展したと思われる。
めでたい話ではあるが、震災直後の興奮が冷めきった今、そろそろ疑問を持ちはじめたカップルもまた多いと思われる。
【仮面夫婦】
すでに結婚している二人の間の「進展」ぶりもただごとではなく、もしあんなことがなければ、なんとかごまかしとおせたであろう「仮面夫婦」たちは、いっきょにその仮面をふきとばされた。
「あの大揺れのとき、私のことを、まったくかまわなかった」
「家族に一個ずつ配給のおにぎりを一人で食べてもた夫に愛想が尽きたわ」
「ふだん亭主関白でいばってるくせに、いざというとき何もできん人やった」
などと「震災離婚」が相次いだ。
離婚に至らずとも、「地震が来たとき、夫は私より、この壺のことばかり気にしていた」と怒りながらテレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に出演した主婦の持ってきた壺は、四十万円ほどと鑑定された、との、笑い話というにはあまりに重い話もあった。
【嫁とりタクシー】
今回のことをチャンスととらえた人は多い。筆者が二月初旬に乗ったタクシーは、姫路からはるばる出稼ぎに来ていた。大昔に離婚して独り身だという五十がらみのその運転手は、
「アパートやけど、住むとこはいちおうあるから、身の回りの世話してもらえる人おらんかな、思てね。家なくした女の人なんかね」
と言っていた。
仮にもつい二十日ほど前まで、女性の三高志向といった話が喧伝けんでんされていた同じ国において、「住む所がある」ことを、女性獲得の武器にしようとしていた、この運転手の厚顔ぶりもすごいが、一〜二月ごろの神戸では、あながち成り立たない話ではなかったところが、もっとすごい。
【竹内まりや】
東京在住のF君には、八年ほど前につきあっていた、いまだ忘れられない〝神戸の女性ひと〟がいる。
電話すると、
「お客様がおかけになった電話番号は、現在使われておりません」
むろん彼女のほうからの電話はない。
そもそも二回引っ越した彼の電話番号を、彼女が知るはずもないことに気がついたF君は、思いあまって八年前の自分の電話番号にかけ、出てきた誰ともわからぬ中年男に、
「おたくに最近、無言電話とか、おたくが名乗ったら突然切るような変な電話かかってきませんでしたか?」
という倒錯した質問をし、無言で切られるという苦しい経験をした。
竹内まりやの名曲『駅』か『シングル・アゲイン』かのなかに「元気で暮らしているのなら電話くらいくれればいいのに」とかの歌詞があるが、これを文字どおりの意味で体験した人はそういない。
【元気だった男】
今に至るまでNHKの震災番組というとオープニングに使われる神戸放送センターの「飛び起き宿直職員」。
衝撃的な映像だったが、学生時代彼に思いをよせていたOLは、インタビューで彼が婚約中と知り、別の意味でも衝撃を受けていた。
【同情するなら金をくれ】
結婚詐欺師たちにとってどの職業、立場を自称するかは重要な選択。
一九九五年から九六年にかけては、
「長田の火事で工場が焼けてしもうてな」
「西宮にしのみやから疎開してきたんや」
と同情させて金をせびるニセ被災者バージョンが急増していた。
【ねるとんボランティア】
「仮設の老人たちの話し相手になってあげたい」
「何か少しでも力になってあげたい」
と神戸入りした若いボランティアたち。
しかし十代、二十代の人生経験、知識では、被災老人たちのヘビーな相談事には太刀打ちできない。結局、老人たちの幸福度はそれほど変わらないまま、何度もミーティングをくり返すうち、ボランティア同士で恋が芽生え、結婚するなど、ボランティアのほうの幸福度ばかりが上昇する傾向があった。
【一九九五年版言い訳】
震災を利用した人は多い。N君は東京在住の神戸人で、同時に若干名の女性とつきあっている。ふだんなら頭を悩ます泊まりの言い訳も今年ばかりは、
「……ちょっと神戸に行っとかんと……」
「そろそろもう一回帰っときたい……」
などと、憂うれいを含んで、阪神大震災を持ち出すと、どんなに嫉妬しっと深い女性からもぜったい追及されなかったという。
【ざるをえなかった人々】
倒壊した家から寝巻の身ひとつで飛び出した人々は、さまざまなアンバランスのかたまりにならざるをえなかった。
やっと取り出せた三歳の娘の小さなスカートをはいた母親。かかとの高いサンダルとかかとの低い靴を片方ずつにはいた中年女性(それでもはきものなしでガラス片だらけの道を行かざるをえなかった人よりよかった)。合わない他人の眼鏡をかけた中学生……。
とくに、目が悪い人にとって眼鏡、コンタクトを失うことは作業能力をほとんど失うことに近かった。やむをえず、
「大阪の会社にスペアがあるから」
と、全壊した家とガレキの中から救出したばかりの妻をおいて、昼夜かけて灘区と大阪を往復した喫茶店主、度付きの水泳用のゴーグルをつけつづけたトラック運転手、目を細めつづけた主婦などがいた。
【メリットとデメリット】
一月という時節柄、
「ちょうどスキーから帰ってきたところ」
「これからスキーに行くところ」
の人がけっこういた。
とくに「これから」の人は、図らずもそこそこの着替え、保険証などが一つのバッグに詰めて準備されており、寒さ対策としてもすっぽりとスキーウエアを着れば、活動性の面も含めてとりあえず万全だった。
ただそのままスキーの代わりに避難所に行くも、「ピンクと赤」など鮮やかな色彩を散らした柄は、他の被災者の手前気がひけた、というマイナス面があった。
【政治的ユニフォーム】
村山首相はじめ、政治家は、何の必要性もなかったにもかかわらず、
神戸に高級車で到着
←
作業ジャンパーを羽織って視察
←
高級車の中でまた脱ぐ
と、作業ジャンパーを愛用していた。
一、二度視察に来ただけのある議員など悪のりして、東京・六本木のテレビ朝日『朝まで生テレビ』のスタジオでも着つづけ、被災者でもある小田実おだまことから、
「私でも着替えたのに、あんたがなんでそんなん着てんの?」
と、つっこみを入れられていた。
【甘くほろ苦いウォーリーを探せ】
代替バスが動いたところはまだいいほうで、三宮︱元町もとまち間など、車さえ通れなくなったゾーンでは、人々はただひたすら歩くしかなかった。
一本の歩道の中でさえ、往路と復路が発生し、歩行者たちは対面通行しながらアリの行列のようになって黙々と歩いた。
ところで、倒壊建物撤去作業のホコリが霧のように舞った当時の神戸では、男も女も大きなマスクをし、帽子をかぶり、物資を運びやすいようリュックを背負い、スニーカー系の靴をはいていた。
東京では重症の花粉症の人か、過激派しかしないような、この震災ルック、まったく個人のファッションセンス、趣味は出ず、顔さえも目元くらいしか見えない。
今は東京に住み、八年前、神戸の女性デザイナーに適当に遊ばれて捨てられたF君は今もそのOさんが忘れられない。
神戸入りして三宮をひたすら歩いている間も、身長百六十五センチくらいで痩せ型、色白で目が大きいというその女性の面影がある人を見かけると、そのたびに、
「な、なんてゆうて言葉を交わせばええんやろう?」
と、体じゅうの血が止まる思いがしたという。
しかし、震災ルックのなかには長身、目が大きいくらいの女性はそこらじゅうにおり、この『甘くほろ苦いウォーリーを探せ』は、ひどく神経を疲れさせた。
【震災ルックは強盗ルック】
日銀は中央銀行の責任として、店舗の壊れた金融機関に神戸支店のスペースを貸して営業させた。その数は十四行にものぼった。ただ、その他行の見ず知らずの行員たちが、通勤や外出のためヘルメットにジーパン、サングラスにマスクまでして日銀行内を歩き回る。
支店長席の周りまでとても銀行員に見えないマスク男が動き回る事態になり、E支店長は、
「ふつうならぜったい非常ボタンを押すところだけれど、ここはもう覚悟をきめよう」
と、はらをくくった。
【復興のおヘソ前線】
「パッと見渡したときブルーシートで屋根を覆った家の量が減ってきてるの見て、ああ復興してきたなと思った。屋根のブルー度がバロメーターやね」
「スーパーで働いてるんですけど、硬貨をかきあつめたとき、最初のうちは焼け焦げたやつとか、埋まってたらしいやつなんかで黒っぽいのや茶色や白のがだいぶ混じってました。それが減ってきて、きれいなコインばっかりになってきたん見て、ああ復興やなあ、ゆうて」
など、各業界、各人それぞれの『復興指数』『復興のめやす』があった。
そんななか、夏が来て、
「最初のうちは男も女もみんないっしょの震災ルックやったけど……このごろは若い女の子に流行りのへそ出しルックの子がおりますよ」
「三宮ではまだ見たことない」
「私は兵庫区で見かけました」
と報告しあう中年男たちがいた。