大阪芸術大学の文芸学科で教員をすることになった作家の話
こんにちは、藤野恵美です。
私は児童文学の分野でデビューして、一般文芸のミステリや恋愛小説なども書いている作家なのですが、あたらしい「お仕事」をはじめました。
2020年の春から、大阪芸術大学の文芸学科で「小説創作演習」と「児童文学論」を教えることになったのです。
大学教員1年目としての「気づき」をエッセイに書くことで、情報を共有したいと思い、noteに登録してみました。
大阪芸術大学(以下、芸大)は、私の母校になります。
1996年~2000年のあいだ、芸大に通っていました。
大学を卒業して、作家になったあとも、卒業生の活躍を紹介するというかたちで、芸大のラジオ番組に出演したり、おなじく文芸学科出身の作家さんとイベントで鼎談したりと、なにかと大学とは関わりがありました。
そんな縁もあり、学科長から「教えにきてくれない?」とオファーを受けていたのです。
しかし、最初にお声がけいただいた時点では、まだ息子が幼く、子育てに手がかかるということもあって、お断りせざるを得なかったのでした。
それに、作家にとって、なにより大切なのは「本を出すこと」です。
お待たせしている版元さんも多いような状況で、あらたに「大学で教える」という仕事を引き受けて、原稿を書く時間が削られてしまうわけにはいかなかったのでした。
そんなある日。
打ちのめされるような出来事がありました。
恩師の死、です。
学生時代、私はSF作家の眉村卓先生が担当していた「小説創作演習」を受けて、毎週のように原稿を提出していたのです。
在学中だけでなく、作家になってからも、眉村先生とは出版社のパーティーの会場でお会いしたり、眉村先生を囲む会というファンの方の集いに呼んでいただいたりして、言葉を交わす機会は度々ありました。
大学に入学して以降の人生を思い返すに、おそらく、実の父親よりも眉村先生と会話をした時間のほうが長く、多大な影響を受けたのではないかという気がします。(ほとんど実家に帰っていないので)
そんな恩師である眉村先生の訃報に接して、あまりに大きな喪失感にどうしようもない状態になっていたとき……。
ひとつの思いが、浮きあがってきたのです。
私のなかには、眉村先生から「受け継いだもの」がある。
そして、それをつぎの世代に渡していこう、と……。
そのような流れで大学で教える仕事を引き受けることになったのでした。
そもそも、創作を「教える」ことができるのか、という疑問は、まだ、心の片隅にあります。
しかし、私が学生時代に「得たもの」は、たしかに存在しているのです。
小説を書く、というのはある意味では「孤独な作業」だと言えるでしょう。
しかし、ある意味においては「すべての物語はつながっている」のです。
どんな作家も、だれかと出会い、本を読み、物語に触れ、蓄積されたものから、本を書きます。
そしてまた、だれかが、その本を読み、記憶に刻み、あらたな物語が作られていく……。
大学で創作を教えることになり、物語とは「受け継がれていくもの」だということを改めて実感しています。
今回は、ずいぶんと抽象的な話になってしまいました。
次回は、具体的に「どんな授業を行っているのか」という話をしたいと思います。
☆追記
記事を書いた順番で読めるように、以下にまとめてみました。
「小説創作演習」の授業について
https://note.com/fujinomegumi/n/na0b348cf2680
「児童文学論」の授業について
https://note.com/fujinomegumi/n/n039a61761108
合評で傷つかないために
https://note.com/fujinomegumi/n/nd2c31400c29d
作品を批判されて命を絶った作家の話
https://note.com/fujinomegumi/n/n7a33c470177f
呼称をどうするかという問題
https://note.com/fujinomegumi/n/na254da9e0039
作家に敬称をつけるか問題
https://note.com/fujinomegumi/n/n99dbf43b28ba
過去に投げたブーメランは未来の自分に返ってくるという話
https://note.com/fujinomegumi/n/n42ec5b1a6711
きわめて洗練された味覚を持つ読者
https://note.com/fujinomegumi/n/n7a032102d5d4
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