過去に投げたブーメランは未来の自分に返ってくるという話
大学時代の恩師である眉村卓先生に対して、私はとても敬愛の念を抱いています。
当時、わりと「生意気な学生」だったのですが、眉村先生の授業は「受ける価値がある」と思って、まじめに出席していました。
まず、作家としての圧倒的な実績。
本がたくさん売れて、何度も映像化されて、紛うことなきベストセラー作家です。
そして、実際、作品が面白い。
『なぞの転校生』や『ねらわれた学園』はジュブナイルSFの傑作だし、私が学生時代に入院中の奥様のために書いていたショートショート作品も、さすがの腕前で、圧倒的な実力差を思い知らされたものです。
その上、人格者であり、授業が面白い。
眉村先生は「昭和のサラリーマン」「組織人」としても優秀だった方で、全体への目配りや集団の機能を向上させるスキルがあったがゆえに、授業も上手だったのかな、という気がします。いま、思い返してみるに。
もうリスペクトするしかないという御仁なのですが……。
それでも、むかつくんですよね。
自分の作品を批判されると。
作品批評とは、本当におそろしいものです。
私が学生当時、眉村先生から指摘された作品の「気になるところ」は数多いのですが、そのうちのひとつ。
登場人物の名前について。
合評用に提出した作品の登場人物に、私は特殊な漢字を多用した名前をつけていたのです。
いわゆるキラキラネームみたいなやつです。
流行っていましたからね、九十九十九とか……。
眉村先生の意見は「はたして、親が子供にこんな名前をつけますでしょうかね」という至極まっとうなものでした。
作者が自分のセンスで「小説のキャラクターにかっこいい名前をつける」のではなく、主人公の名前はその作品世界において「親がどのような思いで名付けたのか」という視点から考えるべきではないか、と言われたわけです。
それに対して、私はむかつき、内心で反論していました。
「うっせーよ、じじぃ。センスが古いんだよ、センスが」
でも、まあ、眉村先生の言うことも一理あるなと思って、以降、あまり珍名さんを小説に登場させないようになったのでした。
その後、小説界には西尾維新さんや舞城王太郎さんが現れたり、現実世界では変わった読み方の名前の子どもが増えたりもするのですが、それはまた、べつの話……。
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