ブルペンの棋士
私には苦手な人種が多く存在する。
今回は、人種というより、もはや人ではない。なぜなら、私はそういう人たちのことを、心の中で「ピッチングマシン」と呼んでいるからだ。
”会話=キャッチボール”だと誰が言い出したのかは分からないが、ここ数年は特にそう思う。”会話”というより、”コミュニケーション=キャッチボール”だと言い換えても差し支えないだろう。
そんな言葉を知ってか知らずか、ピッチングマシンたちは、ただひたすらにコチラにボールを投げつけてくる。
別におしゃべりな人を嫌いだと言っているわけではない。おしゃべりな人は面白いことが多いし、キャッチボールはできる。
私がピッチングマシンと定義するのは
”目を瞑りながら話す人”だ。苦手だ。何をそんなに目を瞑りながら話す必要があるのか分からないし、投げたボールの行方を確認していない時点でキャッチボールをする気がないじゃないか。
投げるボールの速さ、高さ、角度、それらは相手の反応を確かめながら調節するのではないだろうか。ピッチングマシンたちはこれを放棄している。
自分の球を見てほしくて仕方ないのか。はたまた、投げること自体に酔いしれているのか。とにかく、こちらが受け取るとか、投げ返すとか、そんなの一切合切無視して、食い気味に話してくる。
そんなピッチングマシンたちは、本家機械のピッチングマシンと同様に進化をしだしている。コロナ以前からコミュニケーションの重要性が説かれ始め、コロナ禍で全世界が痛感した。
こうした煽りを受け、ピッチングマシンたちもある程度のアップデートが成された。相手の話を聞いているフリを装えるようになったのだ。
今までは、ただ一定のリズムで投球を行うだけだったのが、相手を眺め、構えたと認識したら投げるようにしている。しかし、構えたかどうかでしか判断していないため、見当違いのボールを投げたり、好きなボールだけを投げる。簡素な棒のマシンから、バーチャル映像がつくことにも満たない変化だ。
こんなことを何年も思いながら過ごしていた。そして、最近、テレビを見ていたらピッチングマシンを発見したのだ。”藤井颯太”さんだ。
違う。これまでの私の統計とは異なるタイプのピッチングマシンだ。目は瞑っているものの、しっかりとコミュニケーションは取れている。あれはあくまでも対局中のクセであると信じたい。同世代の者として尊敬しているからだ。しかし、このエッセイを成立させるためにも、クセというより、ピッチングマシンタイプであってほしい。
完全に私が追い込まれてしまった。これは、どっちに転ぼうとも、何かを失ってしまいそうだ。
王手飛車取り、いや、玉手飛車取りといったところか。