saらダの定義

 サラダ、さらだ、sarada、サラダについてこんなにも思考を巡らしたことが貴方はあるだろうか。いやないだろう。絶対にない。どんな国際的シェフでもないはずだ。なぜなら、サラダそのものの存在・定義・哲学的なところから考えているからだ。ここまで考えてたことのある人物は俵万智か私くらいなものではないだろうか。人生で真剣に向き合った日を記念日にするなら、私にとっては毎日だ。

 ここまで私を悩ますサラダ問題とは、「何を以てサラダがサラダとなるのか」ということである。簡単に言うと、「何が含まれていればサラダと呼べるのか」ということである。

 一般的にサラダと言われて思い浮かべるのは、色とりどりのレタスやトマトなんかを、木や陶器のボウル盛り付けてドレッシングをかけたものだろう。差異はあれど、大体はこんな感じだと思う。

 しかし、ここで"サラダ"の名を引き継ぐ、予期せぬ"サラダ一族"が現れる。それこそが、私含め、みなさん大好き「ポテトサラダ」である。コイツは、サラダを名乗っているにも関わらず、ジャガイモが主である。サラダ一族において肩で風を切って歩いていたレタスは、ポテトサラダの登場によって、ポテトサラダを目立たせるだけの脇役に成り下がったのだ。これはサラダ一族における革命である。ポテトの変だ。

 少し逸れたが、"(一般的)サラダ"と"ポテトサラダ"の間ですら、共通する具材がほぼレタスくらいになった。そのレタスですら、あの有様だ。ここまでなら、ポテトサラダが「サラダ界の異端児」というだけでケリがつく。しかし、ここで、もう一度大革命が起こる。信長、秀吉と来て、家康がやって来たのだ。その家康こそが"サラダスパゲッティ"。ヤバい。エグい。意味分からん。完全に「なんだコイツ~」状態だ。もはやスパゲッティ。麺。一般的なサラダ要素なんて皆無だ。

 ここで完全にサラダ一族に脈々と受け継がれてきたレタスは消え去った。レタスのレの字もない。どちらかと言えば、ポテトサラダ派に近いが、もはや最初に思い浮かべた"サラダ"の片鱗は微塵も無い。"サラダ"、"ポテトサラダ"、"サラダスパゲッティ"この3者の間に共通点なんてない。サラダという名前だけだ。本家サラダ家はどう思っているか心配になるくらいだ。

 そう、これこそが私を長年悩ませている「サラダの定義」である。さらに、"サラダ味"なるものがあるが、考え出すとドツボにハマる。答えを出そうと思っても出せないので、私は、考えるのをやめた。

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