Spinoza Note 50: あらゆる狂気に抵抗する力

Spinoza 著 Ethica の第1部を読んだ。前半(定義と公理、および定理14まで)は原文を参照しつつ、基本用語の理解に務めた。各証明も可能な限り検証した。後半(定理15から36)は結論から遡っていった。すなわち、神の能力、産出の必然性、知性の役割、因果関係の連鎖、世界を維持する神、世界を創造する神、「今、ここにいる神」というように整理した。

世界を作る神と保つ神がいて、Spinoza は保つ神に注目している。神が今も働いていて、我々と共にある。そして、人間は知性により真理を知る。そのあたりが主たる主張で、あとはそれらが理解できるよう、必要な知識を伝授してくれる。要約すると簡潔だが、Spinoza がそれを(僅か)36の定理で説明しているのだから、真実が簡潔だと考えるべきだ。

Spinoza の書き方はどうだろうか。公理的方法を採るが、成功していると思う。前から順番に読もうとすると挫折するが、結論を先に読み、必要に応じて信ずる理由(証明)を追っていけば、複雑な概念が徐々に分解され、腑に落ちるよう設計されている。理解度に応じていろいろな読み方ができるのが利点だ。執筆から400年経ってなおも読まれるのは、骨格がしっかりしているからだ。

河出書房の「スピノザ」世界の大思想9(1966年11月)に一枚の薄い月報が挟んであった。題目は「スピノザについての対話」で、著者は山本信(1924-2005)という人である。冒頭、当時42歳の山本氏は戦時を振り返る。数ヶ月後に入営する友人が哲学書を読みたいと相談にきた。そこで山本氏はエチカを勧めた。友人は一読して首を振り、本を返し、帰っていった。それが最後になったという思い出話だ。友人には合わなかったが、「当面の生き方や心構えの問題ばかりに終始するようでは、哲学としてけちなものにしかなるまい」とエチカを推す山本氏の考えは変わらない。

つづいて定義と公理から論証していくという Spinoza の書き方について、次のように意見する:

あの「幾何学的秩序」ということが何を意味するかというと、原理から考え直して本当に納得しようとすることなのだよ。反論を受けそうな言い方をするが、宗教や文学は原理から考えることを教えない。この場合、考えるということに十分重みをつけて理解してくれたまえ。つまり、ものごとを概念によってとらえ、全体の連関の中で納得することだ。体験や印象というものは、どんなに強く生き生きとしていても、やがて崩れたり希薄になったりする。それを概念に託してつなぎとめようとする知的努力が哲学なのだ。この精神の姿勢というか態度というか、それがスピノザから学ぶべき第一のことだ。これは内容の個々の点での賛否にかかわらない。また、あの「論証」というのは、数学でのように形式的に縛ってしまうものではない。

山本信「スピノザについての対話」1966 河出書房

対して甲(対話相手)が反論する:「それにしても、具体的な事実の世界と人間の事柄をとりあつかうのに、経験や反省による検討もなしに、いきたり定義やら一般的原理から天下り式に規定してしまおうとするのは、悪しき合理主義的独断ではないかね。」

その逆だ。スピノザ哲学はたしかに西洋近世の合理主義の産物だった。方法的にも内容的にも非常に偏った考え方で、そのままでは勿論通用しない。しかしスピノザが打ち出したかったのは、まさに独断に対する反対だ。独りよがりの思い込み、世間の動向に流された生き方、あらゆる種類の狂気、そうしたものに抵抗する力をそなえているということが、彼の求めてやまなかった「理性的に生きること」にほかならない。その意味で、理性の人にとって何より貴いものは理性的な隣人だということになる。高貴な物はいつもまれでしかないがね。

山本信「スピノザについての対話」1966 河出書房

共感する箇所を太字で強調した。Ethicaを読むことで狂気に抵抗する力を養おう。いい目標ができた。

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