成仏伝 思春期における家族との距離の話

私は高校時代、家の居心地が悪く、「自分の居場所がない」という感覚が常にあり、それがとても辛かった。
約10年の歳月が流れ、ようやく”あの時”を振り返ることができたので、
今、家族との距離が近すぎて、「家に居場所がない」と感じている方に読んでもらえたらなと考えています。
タイトルは、私の体験が記事の大半になってしまい、他の方にこの記事を読んでもらうことで、過去の私が成仏するような気がして「成仏伝」とつけました。
状況説明や、私の体験談がかなり長くなっていますが、そのあとに、あの時どうするのが良かったのか、考察として書いてあります。

長くなっておりますが、最後まで読んでもらえたら幸いです。

家庭環境について

私は生まれた時から母子家庭で、家は別れていたものの、母方の祖父母に世話になりながら生活していました。
中学時代は、高校時代よりも視野が狭く、習い事や友達関係、受験勉強に忙しかったため、家庭環境について考えることはほとんどありませんでしたが、高校に入り、習い事や日々の勉強に加え、ペットを飼育し、部活までやり、明らかに中学時代よりも忙しくなったのにも関わらず、
家の居心地が悪さが目につきはじめました。

当時母は営業事務として都内に通勤していて、朝8時前には家を出て、締め日前は日付が変わるころに帰宅する生活をしており、
私自身も反抗期を迎え、この時期は母との関係はあまり良くありませんでせした。
祖父母とは仲良くやっていましたが、祖父母同士はあまり仲良くなく、年に数回大げんかをしては、祖母がしばらく私と母の暮らす家に居候をすることが何度かありました。
喧嘩の内容については、お互いに酒が入っているので、話の内容が噛み合わなく、いい加減な反応をすることから喧嘩に発展し、
主に祖父ですが、昔のトラブルをわざわざ蒸し返すことが多かったです。
祖父は祖母と比べて口が達者な分、暴力はしませんでしたが、言葉で祖母を押し付けてしまうところがあり、過去には祖母が「死にたい、消えたい」とまで言ってしまうこともありました。

女手一つで私を育てる覚悟をした母が、私と暮らすために借りた家の間取りは、3LDKではあったものの”共通の廊下”というものがなく、部屋続きになっている家でした。
当時この間取りをとてもストレスに感じていて、何がストレスだったのかというと、親の目から隠れられる場所がないというところでした。
特に悪いことをするわけでもないのですが、自分の行動を全て見張られているような気がして、それが非常にストレスに感じました。
そのため、学校のある日は、部活が終わってもなるべく居残りをしたうえで、帰宅時間が遅くなるよう友達とつるみながら、とにかくゆっくり帰りました。
予備校に通い出してからは、部活のあった日も予備校で勉強をしてから帰るようにしてましたが、予備校に通い出す前のテスト期間などで、学校に遅くまでいれないときは、ジャズの路上ライブを見に、千葉からわざわざ新宿まで制服のまま出かけたり、誰かに誘拐してもらえないかと強く願いながら、何駅も歩いたりして、遅く帰るようにしていました。

今こうして振り返ると、当時、私は母に自分の全てを知られていると感じていて、だからこそ、「私のことは全て知っている」と思われたくなかったのだと思います。
自分自身が知らない自分を母に見つけられたくなかったし、母に反発することで自我を確立させていたところもあったと思います。
それなのに他の人には評価、承認されたくて、派手な化粧をして別人のように写った写真を見せびらかしたり、そのまま街に出て誰かに声をかけてもらえるまで練り歩いたりすることがありました。

家族4人生活

そんなある時、祖母がまた祖父と喧嘩をして、いつものようにうちに居候しにきました。
今回は祖父に対して相当怒っていて、今後帰るつもりはないとまで言っていました。
高校三年生となり、部活では最後のコンクールに向けての追い込みや、大学受験に向けての勉強も始まり、遅くまで遊んでいられないほど忙しい日々を過ごしていました。
母の仕事も落ち着いていて、私が帰宅すると母と祖母の二人が「おかえり」と言ってくれる日々が続いていたある時、私が帰宅しても母がいないどころか、絶対に家にいるはずの祖母までもがいない日がありました。
祖母のケータイに電話をかけると、祖父が喘息で倒れ、母に病院に連れて行ってもらっていたとのことでした。
祖父母が借りていた家は古く、掃除をしてくれていた祖母が出て行ってしまったので、空気が悪くなり、発作が出てしまったようでした。
当時祖父は個人事業主として肉体労働をしていたので、仕事を続けるために体調面を考慮し、祖父も母、祖母、私が暮らしている家で生活することになりました。

一軒家を購入しようの提案
廊下がなく、部屋続きになっている家だと、面倒なことが多く、着替えをする時に、どの部屋からも死角になっているところを探してからでないと着替えられなかったり、勉強をするのも大変でした。
祖母は祖父と喧嘩した直後で精神面が弱っていたため、楽しみがテレビしかなく、気に入ったDVDを薬のようにずっと繰り返し見ていて、完全に閉鎖できる部屋がないために、どの部屋にいてもテレビの音が筒抜けでした。
祖父は学生時代成績がよかったため、私の勉強を面白がってみたがるのですが、私としては、なるべく音もなく、静かに一人で集中して勉強がしたかったので、祖母の見ているテレビの音や、話しかけてくる祖父は、気が散ってしまいとても邪魔でした。
ある日、祖母がどうせ同じ屋根の下で4人で生活をしているのなら、中古でもなんでも一軒家を購入し、私に勉強をさせてあげられる部屋をつくってあげたいと言ってきました。祖父とも話し合い、意見は一致しているとのことで、私は、その気持ちが本当に嬉しかったです。
早速物件の情報収集をしていましたが、最後のコンクールに向けて、部活も休みがなくなっていたので、内覧は祖母と母が行ってくれました。

ケータイ買い替え時の祖母泥酔事件
ケータイの電源が勝手に落ちてしまうことが増え、部活の連絡や家族との連絡で使っていたので、母にケータイを買い替えたいと伝え、新しいケータイを見に行きました。
当時のケータイは今のスマホに比べるとそこまで高価ではなく、私が欲しいと思った機種は、一括購入でも約4万円で、母は購入のためのお金と、保護者の確認書類を祖母に預けてくれました。
ケータイ屋さんが開いている時間に間に合うよう、部活終わってから、普段よりもかなり早く帰宅しましたが、祖母の様子がおかしかったのです。
今となってあの臭いが「飲みすぎ」による臭いだとわかるのですが、当時は祖母の左瞼の上や、頭にできた傷からこの臭いがしているのかと思ってしまいました。
元々祖父と距離を置くために私と母の家に居候していたのに、この家で私と母がいない間、祖父と二人きりになってしまい、避難するために、旧祖父母の家の片づけと称して、向こうの家でやけ酒をしていたのでした。
それでも、私が帰ってくるまでにこの家にいないといけないと思ったらしく、おそらく千鳥足の状態で、およそ300メートル離れた旧祖父母の家からこちらに向かう途中、転んだのか、ぶつかったかで、左瞼の上と頭を怪我し、顔に血の跡が残っていました。もちろん当の本人に記憶はありません。
当時まだ未成年で、酒に飲まれた大人を見たことがなかった私には、状況が理解できず、祖母が誰かに襲われてこうなったのではないかと思いました。
母から預かっていたはずのケータイ買い替えのためのお金と、書類の無事を確認したくて祖母に尋ねると、泥酔し、呂律も回らぬ状態で巾着から探しているため、全く探せず、本当に祖母が道で誰かに襲われ、お金と書類を取られてしまったのだと思いました。
そんな状態の祖母を置いて出かけられるはずもなく、お金と書類も見つからないので、ケータイの買い替えには行かず、母の帰宅を待ち、母と一緒に祖母の巾着を確認すると、お金と書類はきちんと入っていました。

新居の契約審査帰りの祖父に絡みまくる祖母、その後ブチギレ
一軒家の購入については、はじめは中古で探していた家は、いつの間にか土地を購入して注文住宅を建てる話になっていました。
「私に勉強をさせてあげられる部屋をつくってあげたい」と祖母が言ってくれて、家を探し始めたのに、これでは家で勉強ができないまま大学受験が終わってしまうではないか。そう伝えると、事情をきちんと説明されることもなく、「子供は黙っていろ」と、祖父に頭ごなしに怒られ、母と祖母も極まりが悪いのか何も言わず、私はもうこの人たちは信用しないと思いました。
新居の契約にあたり審査があったのですが、私立高校に通う私を養いながらの生活だったので、母は毎月クレジットカードでキャッシングをしながらなんとか生活していました。そのため、キャッシングで借りている分の借金や、分割払いで購入した家電の代金を返済しないと、家を購入するためのローンが組めませんでした。
ローンを組むために、祖父は自分の貯金で母の借金を完済させ、8月最後の土曜日に、改めて家の契約をしに祖父と母は出かけていきました。
私は最後のコンクールを終え、3月の定期演奏会まで部活は仮引退という状態で、いよいよ受験に向けての勉強を始めようとしている時期でした。
祖母と二人で祖父と母の帰りを待っていたのですが、祖母はお酒を飲んでいました。
前述の泥酔事件から私は、「祖母はお酒を飲むと自分がどれだけの量を飲んでいるのかわからなくなってしまっているのではないか」と思うようになり、祖母の飲んでいるお酒の量を目で追うようになっていました。その目はかなり厳しいものだったと思います。
祖父と母が帰宅し、母は買い物をするためすぐに出かけましたが、帰ってきた祖父に、祖母が怪しい口調で「契約はどうだったのか」と尋ねました。
結論としてはローンは組める運びとはなったのだけれど、実際に契約を締結するまで、若干の期間を置くことが必要になったとのことでした。
少し複雑なこの内容を、呂律が怪しくなっている状態の祖母が理解できるはずもなく、祖母の祖父に対する口調は、だんだんと喧嘩腰になっていきました。
私は祖父母が喧嘩になるのを防ぎたい気持ちで、祖母に見えないよう精一杯配慮をしながら、祖父に祖母が酔っていることを伝えようとしましたが、私の配慮はむなしく、火に油を注ぐ行為となってしまいました。
祖母がキレた。
酔っていたため、支離滅裂なことを言って怒鳴り、泣き叫び、挙句青森に帰るとまで言い出し、荷物をまとめ始めました。
祖父がなんとかなだめようとしてくれるのですが、普段から喧嘩ばかりの祖父の言うことに耳など傾けるわけもなく、ひたすら泣きわめきながら祖母はひとり荷物をまとめていました。
自分では対処できないが、なんとか祖母を止めないといけないと思い、買い物のため外出していた母に、簡単に事情を説明して、すぐに帰ってきてもらうよう頼みました。
私と祖父は、祖母に怒鳴り散らされながら、母が帰ってくるまでの時間を稼ぎました。
母が帰ってきてからも、祖母は私たちを罵りながら荷物をまとめていました。
そして荷物があらかたまとまったところで祖母は家を出て行きました。
本気で青森に帰るつもりだったらしく、かなりの大荷物になっていたため、
母が車で祖母を送っていたのですが、母は祖母がかなり酔っていたので危険だと判断し、ドライブをしながらなんとか祖母をなだめて、しばらくはもともと祖父と暮らしていた家に祖母が一人で生活することになりました。

その後の私の精神状況
その後祖母は、母だけは連絡手段として祖母と接触してもいいことになりましたが、祖父と私はこの家に近づくな、連絡もしてくるなと要求してきました。
お酒を飲む祖母に対する目つきなど、私は祖母を傷つけてしまった自覚があったため、祖母の要求通り彼女に近づくことは一切しませんでした。
やがて、新居購入の契約が締結し、12月に地鎮祭、翌年4月に完成予定で念願の一軒家が建つことが決まりました。
私は最後の夏休みも終わり、学園祭の準備をしながら勉強も進めなければいけない状況で、祖母のことは気になりつつも、今の自分に祖母のためにできることは、要求通り祖母に近づかないことだと思い、たまに接触する母に祖母の様子を聞いて過ごしていました。
私と母と祖父の3人での生活は、日中は学校に行く受験生の私、朝早くから夜遅くまで会社で働く母、夜中に働きに出るため日中は暇になる祖父とですれ違い、祖父が手持無沙汰から家事を手伝おうとしてくれるのですが、洗い終わりの食器に洗剤の泡が流しきれていない状態だったり、洗濯物を触られたくないので、手伝わないでほしく、何度もその旨を説明するも、祖父は私たちが逆に気をつかって言っているものだと勘違いし、相変わらず家事に手を出すので、いくつもの家事が二度手間になりました。
二度手間となった家事は、祖父のいないところでやり直していましたが、祖父を祖母と同じように傷つけてしまうのではないかと怖く、勉強にまわしたかった時間を割いて、祖父が家事に手を出す前に、私がほとんどの家事をするようになりました。
この頃から、行が分かれる文章が読めなくなっていました。
学園祭も終わり、いよいよ受験に向けての勉強が本格化する頃、私は祖父が祖母と接触していることを知りました。
どのようにしてそのことを知ったのか、今はもう思い出せないのですが、
もちろん祖父が勝手に祖母に会いに行き、そこで「あの家にいると鬱病になりそうだ」とこぼしていたようです。
私は、祖父を傷つけることがないように先回りして家事をしていたのに、やはり祖父を傷つけてしまっていたことや、祖母に許されることなく淡々と自分の生活を送っていたのは私だけだったということがとてもショックでした。
この頃は、学校に行こうと電車に乗っても、どの駅で降りたらいいのかわからない状態になっていました。

ある朝、電車に乗るのが怖く、学校には行かず祖母の住む家に向かいました。
祖父もすでにこの家に出入りしているのなら、私も祖母と和解したいと思ったのです。
祖母を傷つけようとしていた訳ではなかったことを伝え、祖母に謝り、許してはもらえたのですが、居心地が悪く、その日は結局学校に向かいました。
この頃は自分が空腹なのか、満腹なのかもわからなくなり、ご飯の味や、気温の寒さなども感じなくなっていました。

11月に入り、床が斜めになるような回転性のめまいを感じることや、首から肩に感じる冷たさが気になり、しかしどうしていいかわからなかったので、ひとまず保健室に相談に行きました。
首から肩に感じる冷たさについては、特に指示はなかったけれど、保健室の先生は私の様子がおかしいことに気づいたのか、ほかに不調がないか尋ねられ、回転性のめまいのことを伝えると、メニエール病の可能性もあるため耳鼻科を受診することをすすめられました。
母の仕事が忙しかったため、一人で耳鼻科を受診したのは覚えていますが、その時の診断がどのようなものだったのかは覚えていません。
母はいろいろなことがわからなくなっている私を心配してくれて、ごはんを食べたかなど確認をしてくれていました。

12月に入り、新居の件では地鎮祭が済み、4月の完成に向け、ついに工事が始まりました。
私は、行が分かれる文章を読むことが出来ず、言葉の意味もわからないような状態で高校最後の定期テストに臨んだため、当然結果は悪く、卒業の危機に追い込まれ、突然「家にいられない、いてはいけない」と頭に浮かび、気が付いたら外を歩いていたということが何度もありました。
母が帰宅しても私が家にいないときは、自分でもどこを歩いているのかわからない状態だったため、電話越しの母の指示で、近くのコンビニで店員に住所を尋ね、車で母に迎えにきてもらいました。

年が明け、学校へ登校する日はほとんどなくなり、卒業に向けての追試を受け、センター試験を受け、センター利用で大学を受験し、合格。
部活の集大成である3月の定期演奏会や引っ越しに向けての準備がはじまりました。

大学の入学式は祖母と母が来てくれて、その次の日に念願の一軒家に引っ越しました。
ハウスダストで喉をやられていたけれど、メンタルは回復し、めまいや首から肩にかけての冷たさもなく、一人で電車に乗ることも、文章も今まで通り読むことができるようになっていました。

特に心療内科などにも行かず、どのようにしてここまで回復したのかはほとんど覚えていないので、これは現在の私の推測になりますが、無事に卒業が決まり、受験も終わったことで、私にのしかかっていた負荷がなくなり、少しずつ感情が戻ってきたのだと思います。

考察

あの時どうしてほしかったのかは、覚えていません。
自分が家のことに対してストレスは感じていたのに、それが悩みであると自覚することができず、他の誰かに相談するなど全く考えつきませんでした。

生命が本能で生き延びるために「死にたい」とさえ思わなくなるほど私の身体は限界だったのだと思います。
親は自分の意思で子供を育てるけれど、子供は自分の意思で親を選ぶことはできない。
だからこそ、「家族でもなければこの人たちとは一緒に生活することはないだろう」と思うようになってから、家族と接するのが楽になりました。

家族とは、何でも話せる存在でなければいけない、家は一番心休まる場所であるはずだ、と思っていたのですが、心の距離を意識的に少しおいて、「家族というひとつの集団」として経営をすることも必要なんだと感じました。

以上が私が体験したこととなりますが、ここからは、あの時どうするのが良かったのだろうかを考えていきたいと思います。

私の場合は、引っ越しや進学などの大きな環境の変化も、心の調子の回復にも繋がったのではないかと思いますが、
まずは、心療内科に行くべきだったと考えます。
目的地がわからなくなるような状態で移動をするのは本当に危険です。
ここまでの状態だと、医師も休養するよう指導してくれると思いますので、休養のために診断書も書いてもらえると思います。
家で休養ができないとなれば、病院に入院するという方法もあったでしょう。

担任の先生や児童相談所など、第三者の動ける大人、何でも話せる友達に相談をする、相談できる環境をつくっておくことも効果があったのではないかと思います。

一連の問題が起こる以前から、きちんと話を聞いてくれる家族が欲しかったとも思っていました。
祖父は仕事もあったし、面倒になると話を無理やり丸めて切り上げるところがありましたし、
祖母は、メンタルの調子の差が激しかったのと、昔から「私(祖母)は頭が悪いから」と言って話を真面目に聞いてくれないことが多かったので、私が話したい気分になれませんでした。
母は私が母子家庭であることを気にしていたので、余程疲れているというとき以外は、何気ないことでも私から話しかければ話を聞いてくれましたが、
普段あまり話せていない分、状況説明などに時間がかかり、本当に話したかったことを話すまでに論点がズレてしまうことがたくさんあり、しまいには本当に話したかったことに辿り着けないということも何度もありました。
子供から話しかけてきたときというのは、話を聞いてほしいときだと思います。
子供自身が自分のことや、話したいことをもっと聞いてほしいと思っていたら、きっと自分から話しかけてくるし、話し続けると思います。
ですので、例えば何かを解決させようとするときのように根掘り葉掘り聞くのではなく、あくまで会話をつなげる程度の質問や相槌をして、本当に話したいことを聞き出すようにする必要があると思います。

私の体験は、あくまで私が体験したことであって、考察を含めてこれが絶対ではありません。
今、家族との関係が辛くてこの記事を読んでいる方の中には、私より過酷な環境に置かれ、絶望している方もいらっしゃるかもしれません。
絶望している中で本当に辛く、大変だと思いますが、お医者さんでも、信頼できる第三者でも、今の時代はSNSでも、とにかく人に話してください。
誰かに話した自分の言葉が、きっと失いかけた自分を取り戻すための助けになってくれるはずです。
今、家族との距離が近すぎてストレスを感じているあなたに、私の文章が届きますように。

そして、あの時の私も報われますように。

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