友達が死んだ。
これについての解説をしたい。
わたしは今年で34歳になった。34歳は一般的には若いと思う。まあ20代のころのようなエネルギッシュ感はちょっと無くなってきたんだけど。
さて、これが多いのか少ないのかは分からないけれど、この34年間で知っているだけで4人の友達が自死をした。自死でなければもっとたくさんいるけれど。
そして、恐らく自分の知らないところでもそれは日々起きているのだろうけれど。
もう会えなくなった友達や、疎遠になってしまった友達もいる。
その人たちとこの先2度と会うことが無ければ、それは"会おうと思えば会えるかもしれない"という可能性を残しているだけで、生きているのか、死んでいるのか、正直定かではない。
死んでしまった友人たちは、明確な"もう二度と会えない"を孕んでいるだけだ。
"会わない状態"でいる人と"会えない状態"の人の差は、いったいどう違うのだろう。時々そんなことを考えて頭をもたげている。
先輩の死
最初のそれは、音楽をやっていた頃の先輩だった。もう細かいことは覚えていないが、恐らく統合失調症だったはず。
さてわたしは高校生のころからバンドをやっていたのだが、一緒にやっていたメンバーは割とバリバリのヤンキーで、高校生の頃はいわゆるギャル男だった。
わたしも容姿だけで言えばかなり派手だったので、周囲から見れば似たようなものに見えてたと思うし、まあ実際そんなに違いは無い(※ちなみに写真は高校生の頃じゃないです)
そんな我々を、先輩のバンドマンは結構煙たがった。音楽に真面目な方が多かったので(今も本当に尊敬している)、そりゃあチャラついたやつらが遊びでやっているように見えたであろう私たちのバンドは気に食わなかったに違いない。
同じような理由で、同い年のバンドマンにも全く相容れてなかった。
そんな"はみ出しもの"と仲良くしてくれたのがその先輩だった。先輩はいつもライダースを着ていて、結わえた髪に、虚ろな目、片手に酒、そして殺気をまとったかなり尖った人だった。
先輩は我々のことを「おもしろいやつら」と可愛がってくれた。もしかしたら同じような匂いを感じていたのかもしれないし、気まぐれだったのかもしれない。
私はその先輩が好きで、よく話を聞いていた。むちゃくちゃな人だったけど(なんかよく揉めてたしな)、我々と話すときには優しい顔をする人だった。
そんな先輩だが、ある日、死んだ。
後から聞いた話によると、弟とケンカした末に「死んでやるよ!!」と言ってそのまま逝ったらしい。先輩らしいっちゃらしかった。
仲間が死んだ
わたしは中学校の頃、いつも10人くらいの友達で群れて遊んでいた。遊ぶのは我が家だ。我が家はやたら広いのと、とにかくユルかったので、思春期の中学生にとって恰好のたまり場だった。
集まってくる連中は大体は家庭事情が複雑だった。大なり小なりあったけれど、中には自分の家が居心地悪い奴らもいたように思う。
今では時効だが(時効だよね?)、喫煙や飲酒も当たり前だった。朝まで飲もうぜ!なんてことを覚えたのは彼らと過ごすようになってからだ。
今でも親交がある、大切な友人たちである。半分くらいは人の親になり、もう半分くらいはアホみたいに働いている。
さらす(笑)
これは仲間内の一人が結婚したときに集まった写真だ。この中に、映るはずの関係性なのに映っていないメンバーが2人いる。1人は都合がつかなくて来れなかった。
もう一人は、死んだ。
そいつはいつの日からか、あまり一緒にいなくなったやつだった。高校生になったころ、我々は遊ぶ友人が変わったり、より社会に出て行ったことで、中々集まれなくなったりしていた。
それでも時々集まってはバカなことをやってたんだけど、そいつはそこにも現れなくなり、聞けばあんまりよい関係じゃない相手とつるんでいたらしい。細かいことは分からないが。
それでもなんとかやっている、という話を聞いたりしながら、日々は過ぎていく。いつの間にか県外に行ったりしながら、働いたりしていると聞き、まあ生きているならいいんじゃないか。
そう思っていた矢先に、死んだ。
自死なのか否か、あまり分かっていない。
残された我々は、何ともしがたい気持ちだ。そいつの母親とも我々は親交があった。よくご飯を作ってくれた。
我々と会うことで、思い出して辛くなったりはしないのだろうか。
そんなことが心配なのと、遠方という理由で、わたしは会えてなかったりするけど、地元の友人たちの中には今も会いに行くやつもいるそうだ。
同級生が死んだ
わたしの高校は地元ではかなり偏差値が低く、相当な変わり者が集まる学校だった。不良が集まる学校もあったのだが、そういうのとはまた違った、なんというか特殊な高校だった。
高校生活はそれなりに楽しかった。友達は殆ど出来なかったけれど、仲良くしてくれる人や先輩は多かった。大体いつも一人でいるか、バンドを組んでいたメンバーと一緒にいた。
凄いなこれ…(笑)
そんな中、一人の友人と呼べる存在が出来た。
そいつはいわゆるLGBTなんだけど、まだ当時はそんな言葉もなく"おかまちゃん"なんて呼ばれていたように思う。
見かけの性別は男の子だったけど、化粧をして学校に来ていたし、恋愛対象も男性だった。女性もいける、とは言っていた。
そいつの友達は殆ど女の子だったし、我々もそいつのことは女の子として扱っていた。奇異な目で見るやつも恐らくいたんだろうけれど、我々には特にそういう偏見はなく、普通に仲良くしていた。
我々、というのはその学校で"目立つ奴ら"だ。いわゆるスクールカースト上位の連中。わたしもその一辺にいた。
高校を卒業してからは、しっかり女性の格好をするようになり、中々に綺麗だった覚えがある。
その後、性転換手術を目指してカウンセリングを受けていたような話は聞いたが、真実は定かではない。そういう事情もあって、そいつは東京に越した。
これまた真意は不明なのだが、夜の世界に行ったり、さらにその先に進んだりしていたらしい。お金が必要な事情もあったろう、一人で東京で戦っていたのかもしれない。
そしてある日、死んだ。
理由も細かいことも全く分からない。知っている人がいるのかさえ、定かではない。人が死ぬとき、メッセージを残す場合もあれば、そうでない場合もある。
勿論残されたメッセージも真実かどうか定かでは無かったりする。多分、最後の最後まで"本当のこと"を言えないで逝く人もいるだろうから。
私たちは想像するしか出来ないけれど、その想像は必ずしも必要ではないし、正解もない。
ただただ、そこに"死"という事実が在る。
わたしはいつも誰かが死んでしまった時、あまり悲しくなったりしない。人は言う、こんなことならもっと話しておくべきだった、もっと優しくすればよかった、もっと一緒にいたかった、と。
わたしは思う。そうだよ、その通りだよ。だから生きているうちにやればいいのに、と。どうして今になってそんなことを言うのだろう。
それは恐らく相手の死を受け入れられない辛さや悲しみからくる言葉なんだろうけど。
わたしはいつも誰に会う時も、最後かもしれないと思って会っている。だから、受け入れが早いんだと思う。
生きていたって、二度と会えない人はいるんだから、一つ一つの出会いをなるべく丁寧にしたいと思っている。
もちろん、なんとなく過ごしてしまうこともあるけど。
ただこの時は少し寂しかった。
もう世界中のどこを探しても、そいつに会うことは出来ないんだなあ…と思ったからだ。
幼馴染が死んだ
25歳のころ。あることに悩んでいた。
それは"就職するか否か"だった。当時わたしは映画館でアルバイトをしていたが、アルバイトの持てる責任に限界を感じたのと、いい加減に就職しないとこの先しんどいな、と思い悩んでいた。
そういう訳でアパレルメーカーに就職を前提で入社した。地元のスタートアップ的なリサイクル事業の会社で、ひたすらネット販売する服を出品したりしていた。
正直、まったく楽しくなかった。
会社員よろしくな飲み会に誘われたり、昨日見たドラマの話を振られてみたり、あの独特な"会社という文脈"での会話。本音は話さないけれど、それほどうわべでもない曖昧な関係。
わたしの苦手とするそれ。どっちかに振り切ってほしい。
当時の写真。なんだこりゃ。
それでもここで出世を目指そうと思った。
結果を出して、上に登っていく。まあ、いつもそうすることで満たしていた感情だから、それ以外に方法も知らなかった。別に慣れ合いたくて入った会社じゃない。
本当は、アパレルのこと考えていたって、ちっとも心は燃えないけれど。
そんなある日、久しぶりの友人から電話がかかってきた。バンド時代の仲間で、元気してる?なんて世間話もつかの間、そいつは言った。
あなた○○と仲良かったよね?
死んだよ。
嘘だと思った。その時初めて動揺した。
こんなありきたりなことを言うのもなんだし、そのバイアスが彼を苦しめていた可能性がおおいにあるんだが…
"死んでしまうようなやつじゃなかった"んだよな。
数か月前にも会ったばかりだったし。
そいつはいつも陽気で、とにかく目立つ奴だった。シド・ビシャスに憧れており、なんならちょっと似ていた。
いるだけで周りの空気を変えられるやつ。最高のやつだった。
そいつの姉とも親交があり(たまたま別のきっかけで仲良くなった相手がそいつの姉だった笑)、家庭の事情なんかも知っていた。
複雑だったけれど、姉もそいつをかなり可愛がっており、仲良くやっていた。きっと、弟を失うということは、恐ろしいほど苦しかったろうに。
そいつは一週間くらい部屋にこもり、誰にも何も言えないまま、首をつって死んだ。
家族のことを思うと、今も胸が痛くなる。
葬式で、そいつの顔を見ても、まだピンとこなかった。うっそぴょーん!と言って起き上がりそうな顔をしていた。やっぱり悲しくはなかったし、周りがやたら悲しんでいる様子にも違和感を覚えていたけれど。
その時。その時の帰り道。電車の中でぼうっと窓の外を眺めている時に思ったことがある。
「俺は今25歳だ。あいつも25歳だった。そして死んだ。きっと、やり残したことがたくさんあったはずだ。いろんな夢を語っていたし、やりたいことも山ほどあったやつだから。でも死んでしまった。もうそれは出来なくなったんだ。どんなにやりたいと願っても、それはもう叶わないんだ」
でも俺は生きている。
俺は出来る。出来る機会をまだ持っている。
なのにどうして、やりたくないことをやりながら、得も言えぬ空虚感を抱いているんだろう。死んでいるのと、変わらないよ。
あいつと俺、いったい何が違うってんだ…?
あいつの"出来なかった思い"を背負って生きよう。
あいつだけじゃない。これまで関わった沢山の死も、生きていても起こり得る"情熱の死"を、抱えて俺は生きるべきだ。
そして、わたしは、上京を決めた。
最後に
まあそうは言っても、わたしはもう誰かの自死を見届けたいとは思わない。悲しくない、といのは事実そうなんだけれど、嬉しくもない。
出来ればもっと、楽しい時間、喜びの瞬間を共有したい。そう願っているので、なんだか負けてしまいそうな時はこれを読んでほしい。
バターバトラーのバターフィナンシェを買って、それに合わせるコーヒーは弊社のコーヒーにするといい。なんの因果か、うちのコーヒーはバターを使って焙煎しているから。
上京後の後日談
映画が好きで好きで仕方なかったんだよな。そりゃあ自分よりたくさん映画見てる人はいるし、比べるもんじゃないけど、とにかく心を捧げたんだよな。
だから映画館で働いた。ほんとはミニシアターが好きなのに、そのこだわりも捨てて特大シネコンに行ったよな。真逆じゃんね。
それでも映画に関わりたかったんだよな。
日本でもトップクラスのシネコンでは、本当に色んなことが学べたな。時に悔しい思いもしたよな。
毎週のように行われる舞台挨拶。あそこに立てたら幸せだよなって。
でもその気持ちに蓋をして「映画というか映画館が好きなんです」なんて、笑ってたな。
それはそれで、悪くなかったよ。嘘じゃないしな。
蠢く金と力に、挫けそうになったよな。大人ってどうしてこう、芸術を足踏みするんだって。
でもそんな作品を家族で楽しんでる人の笑顔を見て、生の現場にいれることの有り難さを噛み締めながら、自分はなんて浅ましいんだと、恥ずかしくもなったな。
毎日のように深夜まで働いて、休日も返上して。気付けば周りはどんどん辞めていったな。誰も耐えられる環境じゃなかった。いつのまにか古参になってたな。
「次はどこかの支配人を任せるよ」って、上司に言われたよな。みんなが指示されてた管理者の資格も、誰もとれてなかったのに一人だけ受かってたな。
そりゃそうだよ、毎晩仕事終わりにマクドナルドでノート開いて、通勤中さえ勉強してたんだから。
休みの日は浴びるように映画を観てたな。大好きな橋口監督の舞台挨拶。
映画を撮るには金がなくてきついって言ってたな。最高の監督が、最高の作品を作るのに、どうして金が動かないんだろう。
憧れの園子温の舞台挨拶。映画で飯が食えるようになったのは50越えてからだって言ってたな。
なんだ、わたしはまだあと20年も挑戦出来るじゃないか。
YOSHIKIに会えた。TOSHIROWにも会えた。あゆにも会えた。庵野監督にも会えた。会えたって、仕事だけど、それでも生で見た憧れの人達は最高に走ってたな。
何百人ものアルバイトスタッフと飲んだ。同僚とは殆んど飲みにも行かないのに、アルバイトの子とは飲んだ。アホほど奢り散らかしてたな。
いまでもその子達は仲良くやってたりする。同い年の連中をあつめさせて決起集会やらせたんだよ、そのメンバーだね。
自分は何をやる?これからどうする?
地方で支配人やりながら、良いスーツとネクタイを買えるようになった頃には、結婚でもするか?
素敵な女性にも巡り会えたじゃないか、純粋で真面目で、映画好きの。
でもわたしの心は渇くばかりだったんだ。
それから全部を捨て去って辞めたな。恐ろしいほど嫌われたな。
今まで仲良くしてくれてたのは、わたしが上に昇るタイプだって、皆認めてたんだろう。だからおべっか。上辺だったんだよ。
人間としては最低だったと思う自分でも。優しさとか、全く無かったから。
それでも貫いて辞めたな。なんでって?
映画を撮るためだよ。
安心しろ、いまお前はちゃんと映画を撮れてる。その心は間違ってない。
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