SAKIやせ5

摂食障害について考える。

ある日のメッセージ

映画に写真で出演してもらっているSAKI.Nからこんなメッセをもらいました(SAKIもいるのですが別人です!)。

本人にも許可をもらったのでシェアします。後半にわたしの感じたことを書いておきます。ものすごい内容が書いています。

摂食障害を抱えて約10年

先日「ある本」を読んで、正直読むべきだったのか、読んで良かったのか、悪かったのか、複雑な感情になりました。

今まで胸を張って?摂食障害だと名乗っていた事に恥じらいすら覚えました。

摂食障害を抱えて約10年...かな?

現在28歳。今インスタで繋がっている若い子達の、お姉さん的存在、先輩だと、過信していたように思います。

正直に言うと「吸収」「スイッチが入る」「完吐き」「チューブ吐き」「腹筋吐き」「」「神食材」「鬼食材」「マー」「R(ラウンド)」「チューイング」このような表現が今は当たり前のように使われていますが、私が理解したのは最近です。

何年か前は「」でした。むしろ、このような言い方は嫌いでした。まるで摂食障害を楽しんでいるように感じていたのです。

今は私も使うようになり、そして「ある本」を読んだことにより、色んなことが結びつきました。

今まで私は無知でした。食べ方も吐き方も自己流でした。「」を作っていたこと、自分は「腹筋吐き」だということ、が明確になり、「完吐き」が出来るようになりました。

上手に過食嘔吐が出来るようになってしまった。

最近は露出するのが嫌になりました。

まるで人間ポンプだな」と思いました。

バイキングに行って注意された経験もあります。Cocco、桐谷美玲、河北麻友子の事も知ってました。中島美嘉、NANA、ナナが好きで憧れです。

Mさん凄いなぁと思い料理も上達しました。インスタ中毒です。

でも、これらは自分の意思で、決して「ある本」を読み、共感し、発していたのではありません。

勘違いされたくありません。だから、読んで驚愕でした。私は典型的な摂食障害なのだと。

最近、下剤の量を最小限に抑えています。

痩せたい」という感情はなくなり…いや勿論痩せてたいです。「スタイルが良い」ではなく「病的に痩せてたい」です。

もう少し体重を増やしたいです。

毎日体重を測るのを止め、数値に振り回されることもなくなりました。

しかし今朝、体重を測ってみると、30.1kg先月は31.0kgまであったのです。33.0kgを目指していたはずが減っていく一方です。

私は身長が161cmなので、完全に入院レベル。毎日の脱水症状も明らかです。

もうどうしたら良いか分かりません。

この気持ちを投稿するべきか、誘発の影響があるのではないか、私のように悪影響になるのではないか、でも救われる人間も居るのだろうか...

考え過ぎて疲れました。

今日は過活動をやめてエンシュア飲みながらゴロゴロしてこれをポチポチしてます。(笑)

以上です。

ここからわたしの思ったことを書く

ひとまずSAKI.Nさんありがとうございました。こうして書いてもらえると、いろんなこと考えます。対話によって、新しい考えも生まれたりします。また話してください。

さてこの感想に対するわたしの思いを自由な表現で書きたいと思います。

自由な表現というのはひとつ捻りのある表現で、わたしがひとりの"映画監督"ひいては"アーティストのはしくれ"としての表現だと思ってください。

というのも、摂食障害は明確に【精神疾患】であり、現在までに様々な病理学のうえで理解が進んでいます。

ですから"学術的な表現"と、個人の思想における"自由な表現"はきちんと区別するべきだと思っています。

一方で、あくまでもそこには当事者がいて、症状があります。そこに対する"意味づけ"においては、さまざまな考え方もあると思います。

そういうつもりで読んでください。これから語ることは教科書に載っている【精神疾患としての摂食障害】ではありません。

痩せ姫: 生きづらさの果てに

本文中でSAKIが読んだのは"ある本"というのは"痩せ姫"という本です。

2016年8月に刊行された本です。20年以上、摂食障害をテーマに取材を続けてきた方が書かれています(著者は男性です)。

うちの映画に出てくるYUUKAも"痩せ姫"を読み様々な吐き方を学習した経緯があります。また彼女たちだけでなく、一部の当事者は少なからず"痩せ姫"の影響を受けていると思います。

もちろん中には"痩せ姫"の考え方が飲み込めないというか、受け入れない方もいます。皆が同じでは、ありません。SAKI.Nのように、後発で読んで共感するケースもあります。

この言葉が定着し、この本が一部の当事者の方にある時期から生まれた"痩せ願望"が、時代と共に変化を経て"痩せ姫願望"へと変わったといえます。

こうした強烈な"痩せ願望"は中世のころに発生した"拒食症"の患者には見られかった概念だそうです。※研究上これらの病理は分けるべきと考える方もいます。別の病気であるという見方ですね。

過去のことはわからないので、確かなことは言えませんが、時代背景に影響を受けることは確かです。昨今における痩せに対する社会的な影響がある、という研究も多くあります。

"痩せ姫"という一冊の本には、どんな背景があるのでしょうか?

共感性の中で見つけたこと

ここでSAKI.Nの記述を見ると、彼女に関しては"痩せ姫"を読む以前から、痩せ姫的な"感情"を持っていました。行為さえもそこに書かれてあるままでした。

彼女一人が特殊なケースとは思えず、おそらくこうした経験がある方はほかにもいると思っています。

そもそも後発して読んだ方に関しては"わかりみが深い…"といういわゆる共感性を伴わなければ、決して受け入れられるものではないでしょう。

これは摂食障害に限らず、アートや書籍の中で思想を強く反映するものを受け入れるには"共感性"が必要です。

例えば"君の名は。"という映画があります。この作品は若者を中心に多くの方が支持しました。ちなみにわたしはさっぱり一つも"分からなかった"のですがww

"君の名は。"をプロデュースした川村元気氏が講演でこんな風に述べていました。

「思春期にこんな気持ちになったことなかった?ある朝、突然きっとどこかに運命の人がいるはず、という気持ちに」

元気氏はそれを感じていたらしく、また「みんなもそう思っているに違いない」と感じたそうです。

ところが世の中には"その感じ"を表現したものがなかったのだそう。で、創った、という。

彼の作品は基本的に"みんなが思っているけど言葉にできないあの感じ"を表現することだそう。だからヒットするだけだし、思惑が外れたらヒットしない。ということでした。

これはとても的確だと思っていて、みんなが抱いているあの感じ、を表現することで多くの人の共感を得れます。

音楽が代表的で、ジョンもボブもシドもカート…etcも、あの感じを表現し、多くの人を惹きつけました。

つまり"痩せ姫"は、時代の中で変容した摂食障害のもつ"あの感じ"を、的確にとらえていたのでしょう。

新たに生み出された、というよりは、そこに漂っていたナニカをまとめた、という表現が正しいです。実際に長い年月をかけてまとめられているのですから。

意識の集合知とは?

こうしたことは"文化が成熟"していく段階で起こりうることです。また、同じようなムーブメントが当時に各地で起こることもあります(シンクロニシティってやつです)。

それは現在もうまく説明がついていない概念なのですが、どうも意識の集合知みたいなものが、目に見えないどこかに漂っているようです(集合的無意識ってやつです)。

摂食障害のことを学んでいくにつれて、わたしにもこのような感覚がありました。

というのも、一つの疾患名であり、さまざまな人が微妙に違う症状を発する複雑な病でありながら、どうも一体感があります。

一体感というのも、みんなで何かをしようとかそういうことではなく、もっと概念というか存在感?というか。まあ、そこに一人の人物像が浮かぶのです。

その姿が何なのかはうまくとらえられませんが、それはまさしく"痩せ姫"その人なのでしょう。

言い換えれば、摂食障害を一人の人間のように感じました。※だからイメージモデルを起用したという経緯があります。

これは決してわたしだけの感覚ではないようで、100人近い当事者に"摂食障害とは何か?"という質問をしたのですが…

その方々の多くが"擬人法"を用いて表現しました。そのほかの病気で同じ事象が起きるかはわかりませんが、その他の疾患で"擬人法"にて表現されるところをあまり見たことがありません(あれば教えてください)。

上記のことから考えるに、こんな様子を見て取ることが出来るのです。

"摂食障害"という"意識の集合知"

そのようなものがどこかに漂っていて、実に簡単にアクセスできます。その最中にいる間にはこうした自覚はあまりないようです。アクセスすることで、その世界にハマっていきます。

SNSはそれを見える化したものかもしれません。人によって様々ですが、摂食アカウントと呼ばれるものを作成し、その人格を作り出すことで、症状にもどっぷりとハマっていきます。治療の一環としてSNSを断ちなさいという治療者さえいます(わたしもどっぷりとハマっている人には休めと伝えることがあります)。

SNS普及以前からあるものなので、発症のきっかけや、悪化する要因というよりは、単に思考が見える化されただけ、と考えることもできます。

まあ…ネット上という世界でも"誰にどう見られるか"を気にしなければならないですし、右を向いても左を向いても仲間がいて、写真を観れば食べ物があって、というような環境にもなりますから、あながち助長する作用がないかと言われれば、疑わしいですが…(SAKI.Nがインスタ中毒というくらいですし)

いずれにしても、その"摂食障害の集合知"へのアクセスを試みているように思えます。また、擬人法は症状が慢性化した方や、回復に向かっていく当事者によく見られました。

アクセスしている自覚が生まれた時なのか、客観的にとらえることができるようになった時なのかはわかりません。また、ひとたび離れても、改めてアクセスすることで再発するとも見て取れます。

わたしの考えだと、この"意識の集合知"にはアクセスした人々の思いや経験などが詰まっています。

これも音楽などがわかりやすく、例えば【ロック】という概念は人によってさまざま表現をされます。

もとはといえば一つの意味だったものが、様々な人の解釈で研磨されていきます。

結果ばらばらの表現になりますが、ロックを奏でているときのあの感じ、ロックの神様にアクセスしたような感じ、は共通して得られる体験や体感のように思います。

言葉が生まれたら、そこに様々な意味が足されていき、言葉が成熟すると独特な感覚が共有されます。

これは言語を介して文化が成熟していく様子ですね。その言葉には多くの人の経験や感情が重なっていくのです。

吸収」という言葉も、最初はなんとなく生まれたのでしょうが、今では様々な経験や感情が重なって、その一言が恐怖の象徴でさえあります。

歩んできた歴史に触れる

人間の脳にはまだまだ未解明の部分が多いのですが、ひとつ記憶に関するもので"記憶は蓄積しそれは引き継がれる"という理論があります。

親子など直接的な遺伝が起こるケースでは、これは顕著に表れます。親の世代で経験したこと、脅威や歓喜の経験は遺伝子のパターンに書き換えを起こすことがあります。
※親世代で食中毒などを起こした食品に対して嫌悪感を抱きやすくなったりします。絶対ではないのと人間でどうかは不明瞭ですがおそらくあるとされます。

ちなみにわたしは、これは親だけではなく、人間が共有した記憶や経験は様々な人の脳に刻まれていく、という風に考えています。

赤ん坊が早い時期にスマートフォンが触れるということも考察に値するかもしれません。

50年前の赤ん坊にそれを与えても、同じように扱えたのかは分かりませんが、わたしは無理だったなのでは無いかと思います。先に生まれたわたしたちが使っていることで、これを共有することが出来る、という考えです(都度都度適応できる学習能力を最大限に発揮しているのでしょうが…ベースがどこにあるんだ?という疑問です)。

もちろん、人間は生まれてすぐは、あらゆる世界の情報を強烈にインプットするという機能があるはずなので、全人類が同じ記憶や経験を共有できるとは思っていません。全員天才になっちゃうし。

しかし、あるところでそれは繋がっているのだろうと思います。アクセスをすることで引き出していくというか…(難しいね。あ、あれだ。クラウドだね、それだ)

これは広く大きな"集合知"として存在します。本能に働きかける生存戦略的なものでしょう。

特大なそれが一つあり、さらにいくつかの集合知があると思うのです。それらにアクセスすることで、共感性や共有を得ることができるし、違う生命体である我々の関係を取り持つのでしょう。

"摂食障害という集合知"。これも生存戦略ではあるのでしょう。

生きるすべ、生きていくための杖、生きるための手段、という言い方がされることからもそういう要素があると思います。

が、悲しいことにこの集合知は少し離れた場所にあるようで、生きやすさとは別に"生きづらさ"を付与します。むしろ生きづらくあるためにアクセスしているのかもしれません。

そして、多くの"生きづらさを抱えたまま生き尽くした人々"の感情や経験や、それらを含めた歴史をくみ取ってしまうのでしょう。

その積み重ねられた【声なき声】が、さらに当事者を遠くに送り込んでいくかのように。

生きがいとか繋がりとか

摂食障害の治療をするにあたり、生きがいとつながりが大事であるという考え方があります。

これについては、社会的なつながりを取り戻したり(社会復帰において)、対人関係のつながりを取り戻したりすることで、寛解に向かう方がいるのを見ていると納得いく考えです。

けれど簡単ではなく、"摂食障害の集合知"へのアクセスを取りやめ、今まで拒んできた巨大な"生きやすい集合地"にアクセスするのは容易ではありません。

強く研磨されたその歴史からは簡単に外れることができない。そして何かを達成することが出来ぬままま、次の世代へと託してさえしまいます。

果たせなかった多くの人の思いが積み重なっている、と思うと、摂食障害の集合知とは…

今まで罹患してきたあらゆる当事者の記憶とその記録です。これを手放すのは、容易ではないでしょう。いつしかそれは一人の人の姿にまで変容したようです。それを"痩せ姫"というアイコンに表現したのでしょう。これは相当秀逸だったのではないかと思うばかり。

そこに愛とは違うけれど、ある種の愛に似た感情が重なっているんだと思います。

この"美しくも恐ろしい病"を、どう表現するべきなのか。

当事者のひとりひとりの経験や体験をくみ取り、話をしながらも、その背景に"いる"であろう、"摂食障害の集合知"こと誰かも、いつか救い出す必要があるのでしょう。

それが積み重なったすべての当事者の願いではないのでしょうか。

病理として考える場合、この病を肯定するわけにはいかないのですが、表現者として、その願いは受け入れたいと思う今日この頃です。

SAKI.Nが出ているのは"地獄でなぜ悪い"のシーンです。こちらからどうぞ。


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