雨上がり、ひとりぼっちで考えたこと。
noteを書きます。
例によって最後のほうに大事なことを書いている記事なので、長い話を見たくない人は、最後だけ読んでください(笑)
タイトルにもある「ひとりぼっち」なのですが、わたしは独身で家族も遠くに住んでおり、おまけに今こんな時で、仕事は飲食業で、そんなわけでがっつり引きこもっている。
ここの所は雨も続きており、あんまり買い物にも出かけていなので、まさに「ひとりぼっち」である。
そんなわけでSNSに没入していたのだが、今は何かと意見が対立したり批判したりというのが飛び交っており、それ自体は必要な摩擦かもしれないが、同時にリアルでも議論できる場所が無いと、熱ばかり溜まっていって放出が出来ない。
気が付けば自分と違う意見の相手のつぶやきを見て「こいつは敵だ」などという思考になっていた。そんなことはないけれど、そう感じてしまう心理状態がわたしのなかで大きくなっていった。
これはまずいなと思い、先日から一部のSNSを断っている。これは、そういう「敵意を持つ自分を感じたくない」わけではない。「そういう意見を見たくない」わけでもない。
そのような感情が神経質な時に反射的につぶやいた言葉は、必ず誰かを傷つけてしまう。わたしはわたしの言葉で誰かが傷つくことはなるべく避けたい(100%は無理だとしても)。
そういう人を生むのも、そうなってしまう自分も、ごめん勘弁だ。
であれば勝手に「敵意」をふつふつと抱いているのはわたしなので、その責任を誰かに押し付けないためにも、SNSを断ち、ネットフリックス沼にハマることにしたのだ。
まあ断つといってもやっぱり完全には断てないもんで、ゆる断ちくらいでいいかなと、少し距離を置いている。
結果、ネットフリックスで出会った死ぬほど良かった作品はこちら↓
2020年のアカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞も受賞している作品なので、知ってはいたのだが、中々観る機会もなくスルーしていた。で、先日観たのだが、これがめちゃくちゃに良かったので、ぜひ観てほしい。
「タコの知られざる生態を描いた作品」だとばかり思っていたので、そこまで観る気にならなかったのが正直なところなのだが、この作品は全くそういう類のものでは無い。
「社会という枠の中で人間でいることに疲れてしまった主人公が野生のタコと共に心を通わせるとは何か?ということを“お互いに”考えてぬく作品」
である。それが映像に残っているのだから、そりゃあ文句なしのアカデミー賞だと思う。ファンタジーの中でしか見られないと思っていた「人間とタコが抱擁するシーン」は、息を呑むほど美しかった。
ぶっちゃけタイトルが悪いや(笑) 原題は「My Octopus Teacher」である。「My teacher is an octopus」ではないところがポイントなんだろうけど、ちょっとネイティブでは無いからその辺りは解説しがたいけど。
“オクトパスの神秘”なんてチープなタイトルにせずに、“ラブ・イズ・イン・ザ・オクトパス(愛はタコの中にある)”とかにしてほしかった。
まあいいや(笑) 観てくださいませ。
ひとりぼっちではあるが孤独ではない
さてまあそんなわけでめっちゃ「ひとりぼっち」なのだけれど、別に孤独という訳ではない。というか孤独感が強いわけではない(そら無くはないと思う)。
常々言っていることなのだが、孤独は一人では生み出せない。誰かと生み出すものだ。実際に感じることになるのは「わたし」だったり、「あなた」だったりするのだけれど、それが生み出されるのは常に「わたしたちの間」からである。
孤独の大きな要因は「この人とは決して分かち合えないのだという事実が判った時」に訪れる実感である。
解ってほしい気持ちがあるのに、それを分かち合えないと、判ってしまったときだ。
なんと便利だろう、日本語にはいろんな意味のある言葉が用意されているよ。
我々は違う人間だから、解り合えないことはしばしばある。その中で、対話を続けて、相互理解にたどり着くこともある。が、どうしても解り合えないことだってそりゃあある。
その時に、そのお互いの中にある“解り合えなさ”を、お互いで持つ、つまり「分かち合う」必要がある。
理解とは相互の中にあるように、無理解も相互の中にあった方が良い。そうすることで、解り合えなくても手を繋いでいられる。
すべての人間と、あるいは大切な誰かとでも、解り合えないことくらい必ず出てくるのだから。
そこで「分かち合おうとすること」や「分かち合いたいと思う気持ち」が、たぶん「愛」とか「情」とかなんとか呼ぶんだと思う。
まあ言って見れば「愛の名のもとに痛み分け」が必要なことは、生きているとあるのだ。
けれどその「分かち合おう」という意思が一方から感じられなくなったらどうだろう?
一方に分かち合う気が無いと判ってしまった時、もう一方が感じるのが孤独だ。
この実感こそが人が孤独を感じる瞬間だとわたしは思っている。ゆえにそこには相手が必要であり、そしてすれ違いが必要である(必要というのは変な言い方だけれど)。
まあ論じていけばもう、この「判る」という状態も、お互いに確認したりしていなければ、その人の想定の中ではあるのだけれど…
とにかく、わたしは今確かに「ひとりぼっち」なのだけれど、ありがたいことに、その「寂しさ」を分かち合えている相手もいる。だから孤独ではない。
わたしはここ“メム”を開けないもどかしさを、分かち合える存在はいる。それは社長もそうであるし、常連さんもそうだし、行きたいと願ってくれている皆様がそうだ。
この“もどかしさ”はわたしだけのものではなく、同じように感じてくれている仲間たちがいる。そういう訳で、孤独感は和らいでいる。thank youね!!
どちらの中に生まれたのかという難しい議論
つい昨日「雨上がり決死隊」という漫才コンビが解散を発表した。わたしも例にもれず世代であり、長い期間、笑いを届けてもらった存在なので、寂しい思いもありつつ、仕方ないことだろうなあ、などと観ていた。
二人の間に何があったのかは分からないし、こういうことはあれこれ議論するものでも無いのだけど、ふと二人の間に流れる孤独を眺めていた。
わたしはコンビとしての雨上がりも好きだったが、どちらかというと宮迫氏推しだったので、どうしても宮迫氏に肩を持ってしまう。
まあなんと弱い人だなあ、強がりだなあ、などと思いつつ、それこそ実害を受けたわけでもないので、特に嫌う理由もなく、YOUTUBEなんかで活躍する氏を眺めていた。
残念ながらテレビを見ないために、蛍原氏の活躍を知ることは殆どなかったけれど、アメトーーク!でめちゃくちゃ頑張っている、みたいな印象はあった。最近はYOUTUBEもやり始めたので、ちょっろっと観たりしていた(笑)
まあなんだかんだ好きなんだよね。雨上がり。
またいつか二人の漫才でも観れたらいいよねえ~!位に思っていた。そんな折に解散。そして久しぶりに二人並んでいる所を観た。
まあ色々思う所はあったけれど、決めた道ならば仕方ないよなと思う所で、やっぱりインターネットにて、皆がどう思うかを見ちゃっていた(笑)
すると多くの人が「ホトちゃん可哀想!!」「今まで耐えて頑張って来たのに!!」と、やつれた顔で、悲壮感を漂わせまくっている蛍原氏と、対照的にちょっと元気で、笑いを取りに行く姿勢さえ見せる宮迫氏とは実に対照的だった。
わたしは思った。宮迫氏だって、めちゃくちゃ頑張ってるんだけど…
なんなら雨上がりをここまで伸し上げるためにも、相当頑張ってきたはずである。
蛍原氏が頑張っていないわけで決してはないけれど、少なくとも見てるこちらからすれば宮迫氏の持つ良くも悪くも周りを巻きこめる力と、推進力がかなり大きな要素だと思っている。
アメトーーク!のMCを辞めるべきではないって説得したのも宮迫氏でしょ…これはもう我々だけの場所ではないって、かなりまっとうな意見だと思う。行動が伴っていないのはさておき、そういう判断が出来る凄さもある。
にも関わらず、そろいもそろって蛍原氏の肩を持つし、ご本人も「すれ違いを感じた」「そのことが辛かった」「一年半我慢した」という。それに視聴者も賛同する。そりゃ、あんな疲れ切った顔でそう言えば、多くの人が同情すると思うけど…とても違和感だった。
宮迫氏がいろんなことを勝手にやったり、不義理であったりすることは確かなのだろう。
まあそれも本人の弁を借りれば、どうしても「かっこつけてしまう」がゆえに、黙っていろんなことをやり遂げて「ほら?俺を信じてて正解やったろ…?」と言いたかったりするのだろう。
そのために、本来は二人が抱えるべき苦労や辛抱やあるいは非難を、時に背負ってきたりしたのだと思う(もちろんそんな姿を悟られないようにするのがテレビの世界だろう。YOUTUBEではちょいちょい出しているし)。
こういうふるまいが“かっこいい”かどうかはさておき(というかむしろ弱くてダサい)、前線で藻掻いていたようには思う。
一方の蛍原氏は耐えると言っているだけで、何をやっているかはよく分からない。
もちろん、繰り返すが二人の中でのことだし、テレビに出てこない部分がたくさんあるのだから、そりゃあそりゃあ色んな批判もされたろうし、いっぱい大変だったことはあるんだろうけど…
ただ“今まで我慢していて辛かった”という言葉を持ち出すことによって、二人の間にあった“分かち合えないもの”を、一方的に宮迫氏に押し付けたように見えた。“あなたがわたしのことを解ってくれないのが悪いんだからね”という風に。
そうすれば、彼の中には孤独感は残らない。それまで抱いていた寂しさや不調和は、お互いの中にあることなのに。
押し付けられたことで、孤独感へと形を変えて、宮迫氏のほうにこそ強く生まれたと思う。
結果的に世間から非難されているのも宮迫氏になっているし。
その種をまき続けているのは宮迫氏だ、という意見もあるし、それは確かにそうなんだけれど、少なくともコンビであれば、そこでバチバチと戦い合えるきっかけなんていくらでも作れたと思うのに。
まあそんなわけで、わたし的にはあの一件はそんなもやりを覚えるにとどまった。
分かち合いたい苦しみのはての孤独
さて、ここからが本題だったりする。本題まで、来るのなげえよ。
解ってほしいことを解ってもらえないことはままある。そしてそれが分かち合えないことが、苦しい。
わたしはこういう現象をしばしば見ることがある。それが弊社長だったりする。
弊社長は、中々に偏ったIQを持っていることもあるが、思慮にも富んでおり、経験も豊富で、非常に有能である。仕事も出来る。
ここでいう“仕事が出来る”というのをいったん定義付けなければならないのだけれど、仕事にもさまざまな種類があり、単純な作業だって仕事だし、その作業を指示するのも仕事だし、指示体系を管理するのだって仕事だ。
適材適所もあるし、得意不得意もあるので、一概に優劣をつけるのもなんだけれど、さっきの流れで言うと、最も負荷がかかってくるのは“何を管理していくべきか”という道筋を判断していくという仕事だと思う。
要するにそれが“社長業”であるし、弊社長もそういうことにエネルギーを注いでいるし、その能力がとても高い。
“ある判断”みたいなことをさせた時、めちゃくちゃ早かったりするし、それでいて合理的でもある。あまりにも早いために、周りが「???」となることはしばしばある。
まあめちゃくちゃな豪スピードで達人が正拳突きしたら、あれ?そんな凄いかこれ?と思ってスロー再生したらなんと3発も放ってました、みたいなことがあるのだ(結果も含めて見てきているのでよくわかります)。
一方で、なぜそういう判断が出来るのか、という説明を求めても、うまく説明が出来ないことがある(基本的には説明も出来るんだけどねw)
そういう時に、周りに起こるのは「解らない」という反応である。
しかし「解らなくてもいいから分かち合おうその決断を」というのを、なぜかとても避けられてしまう傾向にあるのが弊社長である。
それが悲しいかな社会の偏見だったり、学歴至上主義からくるものであったり、そういう場合もあった。
そういうものを取り払えるといいよね、という活動の中で、そういうものにしてやらているのを見ると、マジで居た堪れなさMAXだった。
お互いに目指しているものが違うと判ってしまえば、分かち合うことなんかとてもじゃないけど出来ないだろう。
こういうケースはかなり見てきた。それは弊社長だけでは無いのだけれど、例えば弊社長及び、わたしも尊敬してやまない「スタンリー・キューブリック」で例えてみるとする(シャイニングって名作映画撮った人です)。
彼は映画監督としては非典型的な道を歩んできている。もともとは動画ではなく写真を撮るカメラマンであったし、それも少し特殊な成り立ちでカメラマンになっている。
彼はファインダーの向こう側にいつも「真実」を持っていて、こうすべき、という答えを持ち合わせていた。が、それを理解してくれるサポートチームはほとんどおらず、結果そういう人々から離れてから殆ど自身で製作した作品が評価されている。
芸術家は作品の芸術性にだけ責任を持てばいい。
An artist should account for only the artistry of the work.
By Stanley Kubrick
なお、これは“某庵野”も似たような道をたどっている(笑)
彼らもまた“解ってもらえない”を“分かち合えずにいた”と思う。その“解ってもらえなさ”に何より苦しんでいるのは本人なのに、あなたの言っていることはさっぱり解らない!と、苦しみを押し付けられたときに生まれるのは間違いなく孤独感である。
それさえも、分かち合えないというのならば、その道は決別以外になかろう。
そういう状況をしばしば見てきて、わたしはわたしの中にある“他者と分かち合おうとしない態度”が、“何かが解らないという状態”よりもはるかに傲慢であるな、ということを覚えた。
まあというか教わった。弊社長はそういうのも言語化できる位には卓越しているので、そういうことを教わっている。
最後に大事なことを
photo by KAZAMA AKATSUKI
まあ、そんなわけであれです。わたしは「ひとりぼっち」だけど特に「孤独感」は無いのですが、それはこの“メム”にいて開けられる日を待っているから、というのがあるわけです。
が、その“メム”を絶対的に守っている弊社長は、いかんせお店に物理的にいるわけではないし、今も我々から見えぬところで、とてつもなく大事な仕事を進めています粛々と。
ゆえにちょっと「孤独感」が高まってしまうのではないか…
とわたしとしてはちょっと心配です。ので、例によってエールを届けてあげてください。
なに、簡単です。そっとツイッターでメンションつけて、エールの言葉を送ればいいですよ。
わたしからも送ろう。
「頑張ってるのは知ってるけど、もっと頑張れ!ついていきます!」
ってな感じでした。
敬具。