36歳になった僕が思う、安定と混沌の間。
36歳になったりなどした。
4月25日をもって36歳になりました。寅年の年男です。
去年の誕生日にはこんなnoteを書かせて頂きました。
今年も誕生日に思うことを記しておこうと思います。はい。
36歳一般男性とは?
こういう括りに関して、わたしがあまり好きではないことはわたしを知る方ならわかるとは思うけれど、あえてそのことに触れながら書こうと思う。
そもそも一般的な36歳の男性の定義がよく分からないのだが、すくなくともわたしが受けた教育や文化の中では“会社に勤めつつ家族を養いながら週末にはなんかしら趣味を持ってたりする”というイメージだった
そういう観点から見れば、わたしの人生はそういうものの対極にいる。ずっとずっと混沌としており、安定とは程遠い。超不安定である。
上げだすとキリが無いのでここいらにしておく。一応簡単に調べたところ、30代の平均年収は437万円くらいで、貯蓄額は500万くらいらしい。借り入れも1000万となる(この額だと車や持ち家のローンがある人なのだろうけど)。
どれも、当然のように満たしていない。というか平均なので、これを満たしている人ってあんまりいないように思うが(笑)
一般的な36歳とは程遠いと思う。でも、実はこの条件を満たすことが出来る可能性は、過去にあった。
何度か、あった。
最初の可能性は19歳の頃。
当時わたしは【吉備国際大学 臨床心理学科】に籍を置いていた。将来的には精神保健福祉士もしくは臨床心理士になろうとしていた。
いずれの職についても、36歳まで続けていれば上記の条件になんとか届くか、届かないか、というラインだろう。ただこれはまだまだ可能性の段階であったので、少し怪しいものではあるが。とはいえ今よりは可能性があったと思う。
もともと“人の心の正体を知りたい”とか“心に問題を抱えている人の力になりたい”というのが動機だった。
わたしの家は熱心な仏教徒で(まあ色々あってそうではなくなるのだけどその話はまたいずれ)、わたし自身もしっかり釈迦にあこがれを抱き、人々が悩んでいることがわたしの悩みだった。
当時から多くの人の悩みを聞き、なるべく力になれるよう、説くことに夢中だった。
今思えばそれは自己を守るための欺瞞的なふるまいであったなと思う。相手を変えようとすること。それは単なる支配欲求や、変えられない自分の弱さを他人に見出し、なんとかしようとすることで満足していたのだと思う。
ただ今も、やり方は変わったものの、在り方は大きく変わっていない。同じように思うことがしばしばある。けれどあの頃のような侵襲的な関りはしないでいられている。
すこしだけ自分を大事に出来るようになったのだと思う。
いずれにせよ、わたしはそこに長くはいられなかった。教科書の中には“人の心”は載っていないように思ったから。
二度目の可能性は21歳の頃。
その頃わたしは親の会社に勤めていた。社長の息子と言うのもあって、正直優遇されてもいたし、とはいえ成果も上げていたので、役職ももらい、かなり給料をもらっていた。
その頃に始めた貯金は1年足らずで100万近くになり、特に使うあても無かったから溜まっていく一方だった。このままいけば順当に社長になるだろうし、会社は製造業だったので安定もしていた。
たぶん上記の条件は満たせていたと思う。うまくいけばもっと上も目指せたろう。そういう領域にいることは実感もあった。
この頃は人との関わりが多くなかったように思う。なにせ仕事ばかりしていた。仕事しかしていなかった。趣味も無かった。嘘、パチンコにはハマっていた。
このままいけば、当時付き合っていた彼女と結婚なんかしたりして、普通の生活を手に入れていたのだろう。
ただこの頃のわたしはあまりにも多くの問題を抱えていたように思う。そのすべてを棚上げしながら、仕事の成果と増えていくお金だけが自分をなんとなく形にしていた気がする。
だから当時の彼女とは“一緒に生きている実感”などなかった。別々の人生を歩みながら、一緒にいる感じ。今もよく分からないけれど、夫婦や家族というものは、恐らくそのように在るべきではないのだろう。
彼女には何の相談もなく、仕事を辞めた。そして100万はパチンコに消えた。
本当のことを言うと、わたしはその時、自由に時間を選べる仕事がしたかった。彼女の休みが平日で、わたしが土日だったために、一緒に過ごせる時間が少なかったからだ。
だから転職して、一緒に居られる時間を増やそうと思った。でも何が間違えているって、「一緒に居られる時間を増やしたい」ことも「その理由が寂しいから」ということも、言わなかったし言えなかった。
全部黙って、実行して、達成する。
それが“カッコいいこと”だと思っていたし、正しいと信じていたし、相手を喜ばせることだとも思っていた。
相手からすれば“思っていることを話してくれないこと”が、何より負担になっていたというのを知るのはずっと後のことだ。相手が何を喜び、何を悲しむかなど、知ろうともしなかったし、考えさえしなかった。
わたしは自分の満足のために、相手の時間を奪いつくした。そんなことは無いのかもしれないけれど、そう思われても無理ない関わり方をしていた。
三度目の可能性は28歳の頃。
この頃はすでに東京にいて、大手映画会社でサラリーマンをしており、そこそこに出世し、周囲からも期待されていた。年々給与も上がっていたので、いずれは上記の条件に達していたと思う。
社会的な地位も、それなりに実感があった。ある程度名の知れた会社だったし、勤務地も有名だったので、話す人に話せば驚いてくれたりした。
仕事は楽しかったし、会社でもほとんどの人とはうまくやっていた。過去の経験からなんとか学んだ、コミュニケーション能力の重要性は良く分かっていたつもりだったから。
どうすればうまく話せるか、どうすれば人から信頼されるか。
そんな本を片っ端から読んで実践しまくっていた。思った以上に効果を発揮したと思う。
結婚の可能性も僅かに浮上した。当時知り合った年下の女性と何度もデートを重ね、清く正しいお付き合いしていた(恋人では無かったので映画を観たり食事をするだけだ)
好きな映画と聞かれて“ローマの休日”と答えるような、とても真面目でおしとやかな女性だった。
たぶんその方とお付き合いすれば、すごく一般的な家庭を目指せていたと思う。
この頃に脳裏によぎったのは“安定”だった。だからわたしはそこから逃げ出した。彼女からの告白も断った。
ずっと目を背けていたけれど、安定が怖いのだ。
わたしはそれを隠すために、刺激が好きだという。不安定が楽しいという。今を生きればいい、未来なんかいらねえ!破天荒だぜい!と言う。
でもそれは全部全部、安定が怖いことを隠すために振舞っているに過ぎない。
重要なのは、なぜ安定が怖いのか?という点。
そんなことは自明で、わたしは“幸せになる資格がない”と思っているからだ。
安定した生活と言うのは、多くの場合は幸せに直結している。温かい家庭、愛される居場所、豊かな生活。
これらを築くために重要な基盤になるのが“安定”だ。
もちろん、すでに多くの問題を抱えているがゆえに、これらに対して幸せを見出せない価値観はしっかり作られている。
ただそれは決して“尖った自分”や“強い自分”を携えているわけではない。
そこにいるのは、弱い自分、自分を認めらない自分、愛されたいのにそれを言えない自分、そういう自分がいる。
でもそれを認めたくないのだ。弱い自分は、恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がないのだ。
そしてそういう自分には“幸せは分不相応”と感じているのだ。だから、安定を恐れているし、訪れたら捨ててしまう。まあいわゆる回避行動でしかないのである。
それを隠すために、わたしは、ただただ“破天荒さ”みたいなものを身に着けたに過ぎないのだ。
今は幸せ?
さて、そんなことが分かった36歳寅年のわたしは、未だに不安定の中にいる。
安定を怖がったまま、弱い自分を認められずにいる。
それで“幸せなの?”と思かもしれない、今この記事を読んでくれている人に、そっと伝えようと思う。
割と幸せだよ(笑)
幸いなことは、わたしには友人や仲間や家族や大切な人がいて、そうした周りの人間に、自分の弱さを見せていけるようになった。
昔はそうでは無かった。弱い自分ではなく、強い自分でいることを、周りに求めらていると決め込んでいたし、それがみんなのためになるとも思いこんでいた。
でもそんなことはなかった。もちろん、実際にそういう相手もいる。自分の能力だけに寄ってくる人もいたし、そういう人に弱さを見せれば失望もされた。
しかし、そもそもを言えば、わたしもそういう相手には、自分の強さだけを認めてもらおうとしたし、そうすることで満足するようにしていたので、関わり方に問題があったのは、お互い様である。
なんだったら、自分の方がまずい関わり方をしていたんじゃないかな、とも思う。
自分が心を開かないでいるのに、なぜ相手が開いてくれるだろうか。
今の自分は、生活も不安定だし、やっぱり心を開くのはものすごく苦手だけれど、そのことを隠したり取り繕ったりすることは、ずいぶん減った。
まだまだあるけれど、そういう自分だよということは、何とか伝えられるようになったし、そのことを踏まえて側にいてくれる人が増えた。
それを幸せと言わず、何を幸せと言うだろうか。これももしかしたら、バリバリの虚栄心なのかもしれないけれど、大丈夫。
だって、もうみんな、わたしがロマンチストのかっこつけだってことは、よく分かってるでしょう(笑)
わたしは今も何にも分かっちゃいないし、それでも分かったかのように振舞うけれど、そのことはよくわかるようになったよ。
読んでくれてありがとうございました。面白い36歳を過ごします。