今すぐになんてやらなくてもいいよ
数年前、ぼくが活動をはじめてまだ間もない頃のこと。それでも小さなイベントはたくさんこなしていて、少ないながらに人は集まっていた。
人が集まるということは、いろいろな想いが集まるということでもある。でもぼくは、そうした想いをうまく受け止められていなかった。
いや、大きな失敗をした訳ではない。けれど、確かにこぼれ落ちていくなにかが、そこにあったように思う。
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少し寂(さび)れた、でも活気があった空気は確かに残る商業ビルの中につくった「amare(あまり)」という秘密基地。コミュニティスペースとは呼びがたい、一見さんには入りにくい空気があった。
ぼくは、そこを事務所代わりにして、仕事をしていた。
室内には、昭和の時代から稼働していたであろう古いクーラーがあった。だけど、ぼくたちが使う頃にはもうその役割は終えてしまっていて、たくさんの人が集まると室内は冬でも熱気に包まれた。
ぼくは、お店のようでお店ではないその空間で「なにもしないけれどカウンターの中に立つ」ことが好きだった。そして、誰かがカウンターの中に立っているのを見ることが好きだった。
定期的に開催していたイベントには、毎回異なるゲストを招いていた。彼らには、それぞれの特技やスキル、また行っている活動の話などをしてもらった。ときにはダンスやヨガなどもやったりしていた。
参加者は毎回異なる人たちで、それぞれの回のテーマやゲストに関心を持って来てくれていた。もちろん、取り組み自体に関心を持って参加してくださる方もいた。常連さんもいた。
話は逸れるが、ぼくには常連の方より新規の方を大切にしたいという思いがある。それは、初めて参加した場で身内ごっこを見せられて辛かったことがあるからだ。オープンにするなら身内ネタはやめようよ、そう思う。だから決して初めての方を置いてけぼりにしない、と心に決めて場所の運営をしていた。みんなでフラットにその場をつくっていきたかった。
イベントはいつも2時間。ゲストからの話題提供があり、参加者を交えての対話や体験も行う。特徴的なのは「終了後にあまり参加者の方が帰りたがらない」ということだ。そうした様子を見て、みんななにかを学ぶということだけではなく、関係性をつくりにきているのだと気づいた。具体的なきっかけがほしいのだと。
終了後、いつも近くの居酒屋に行って飲んでいた。お店は近場のところをローテーションで回った。多いときは10名を超えるときもあったし、少ない人数でしっぽりやるときもあった。そこで仲良くなった方の数は知れないし、今でもぼくの「財産」として、関係を結ばせてもらっている方も多い。
だけど、うまくいくことばかりじゃない。
定義のしにくい場を運営していると、働いたり、生活したりする中で、違和感を感じていたり、なにかモヤモヤする気持ちを抱えていたりする方と出会う機会が多くなる。「普通」に暮らしているとリーチしにくい場所であり取り組みなのだから、それも必然のことなのかもしれない。
そうした中、何度か訪れてくれていた方がいた。その人は「今の仕事に大きな不満はないけれど、なにか自分でもやってみたい。そしていつかそれを仕事にしたい」、そんなことを言っていた。
何度か相談に乗った。イベントの後の飲み会で話を聞いた。その人がなにかはじめられると素敵だなと思って、当時の自分なりに熱心に話を聞いていたと思う。ぼくが25、6歳の時だった。
どのくらいの期間、継続的にお会いしていただろう。最初に会ってから数ヶ月か一年ほどだっただろうか。その人が「やりたい」と言っていたことに対して、どのような具体的な行動を取っているかという話になった。
だけど色々と話を聞いていても、結局やらない理由を並べてなにも実行には移していなかった。そのことに対してぼくは少し苛立ち、強めな口調でこう言った。
「いつやるんですか。本当にやりたいなら、早くやりましょうよ」。
その人はそれ以来、来なくなった。
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言葉で人を殺したことがある。
結局、その先はぼくには知れない。その言葉が起爆剤になって、ぼくには知れないところでその人なりになにかスタートされたかもしれない。そうだったらよい。
けれど、あのことがプレッシャーになって、首を絞めてしまったかもしれない。いや、きっとそうだったのだろうと思う。
だけど、そもそもなにかはじめなければならないことなんてないはずだ。そして、早めにスタートさせないといけない理由もない。ましてや、早めにということさえ個人差がある話だ。今ではそう思う。どうしてもっと待てなかったのだろう。
そして、どうしてぼくはあのとき苛立ったのだろう。親身になって聞いているのに結局動かなかった(ように見えた)その人に腹が立ったのは、どうしてなのだろう。
自分の話の聞き方が甘かったのか、アドバイスが具体的でなかったのか、それともそのほかになにかあるのか。いや、そもそも「してあげている自分」になっていたのかもしれない。そこが根本的に間違っていたのかもしれない。
言葉を書くこと、話をするということは、常に何かを取りこぼすという悲しい作業でもある。言葉にできないあの想いや感情、情景たちはどこへいくのだろうか。
言葉は人の可能性を広げもするし、殺しもする。翼にもなるし、鎖にもなる。そうしたことに、ぼくはまだまだ無頓着であった。今では、少しずつわかるようになってきた。けれど、そんな「過去の罪」がぼくにはたくさんある。
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ふと、twitterに目を遣る。強く、たくましく見える言葉が並ぶ。インフルエンサーと呼ばれる人や経営者の言葉を見ていると、すぐにやらなきゃと思わせられることもあるかもしれない。だけど、すぐにできない自分を目の当たりにすると、自己否定のループに陥る。よく考えてみる。自分がそうなるきっかけになる言葉を放った人たちは、そこまで見て、関わってくれる人たちなのだろうか。
きっとぼくも、そうした空気感を出している人間の一人であったように思う。いや、今でもそうなのかもしれない。でも、本当はそんなことどっちでもいいじゃないか。やってもやらなくても自由じゃないか。そんなことは大切なことなのだろうか。本質的なことなのだろうか。そんなことも思う。
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丁寧に、ただ丁寧に言葉を紡いでいきたい。それは、ぼくが今までに潰してきた可能性に対する慰霊でもある。
これからもずっと、自分に問うていきたい。
「その言葉は、人を活かす言葉ですか」、と。
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