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寝起きでふと書きたくなった文章

めちゃくちゃ筋肉痛だ。あばらが折れているのかもしれない。それくらいに筋肉痛だ。

先月から畑(「武庫之のうえん」という)をしている。いや、畑はそもそも「する」という表現で合っているのだろうか。わからない。昨日、堆肥を入れ、土を掘り返し、畝をつくった。土をもう少し整えてから、野菜などを育てていきたい。新潟でウコンを育てている友達がウコンを送ってくれるそうだ。

最近、雨が多い。今朝も起きると雨が降っていた。午前中から予定がある。少し出かけるのが億劫だな。そんなことを思っていた。その後に、ふと、今までにない感覚があらわれた。

「畑、また水たまりになってるかな」

何気なくそう思った。そりゃ、関わりはじめた畑の水捌けがよくないので、気になるのは気になる。仕方のないことだ。ただ、気になること以上に「重要な感覚」がそこにあるような気がした。

自分=藤本遼だろうか。では、藤本遼はどこまでが藤本遼なのだろうか。考えてみる。どこから藤本遼ではないのだろうか。

人間は自分以外のものとの関係性の中で生きている以上、自他を「明確に」区別するのは難しいと思っている。生きているということは、そもそも複雑に絡み合うということなんじゃないか。そもそも「自分」というのは、関係性の中でしか見えてこない概念なんじゃないか。なんだかそんな感じ。

ぼくが使う「言葉」はぼく固有のものではないと思う。誰かから借りてきたものを書き連ねたり、話しているに過ぎない。その「言葉」をベースにして「思考」したことは、ぼくのオリジナルなんだろうか。もちろん、リスペクトしてほしい気持ちはあるけれど、自分のものだと明確に権利を主張する考え方にはどこかしっくりこない感覚がある。

どこからどこまでが自分なのか、自分にはわからない。けれど、畑と関わることを通して「自分」が拡張されているような感覚は確かにあった。しかしそれは、無限の成長を目指すような拡張(ネオリベラリズム的成長・拡張)ではなくて、自分とそもそもつながっていたものとつながり直していくようなプロセスに近い。編み直し、という表現が当てはまる。

場は、自分以外のなにかとのあいだに立ち上がってくるものなのであれば、畑とのこの関係性は明らかに場である。もしかするとそれは、都市に暮らすぼくたちが失ってしまった場の感覚なのかもしれない。

コロナはなにを伝えているのか、ということを深く潜って考えている。おそらくコロナと関わる自分自身のあり方の側を変化させていかないと、生きていくのが大変そうだ。さまざまな事物との関わり方の問い直しの機会として捉える必要がある、と感じている。

畑は一旦、一年間やってみます。それ以外の新しい取り組みもどんどん仕掛けていきたいなと思っているので、一緒にあそびましょう。気軽にお声掛けください。

筋肉がつけば物理的にも身体(自分)が拡張するので、うれしい。

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