前回は、『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ氏著)をもとにしながら、人間の幸福について考えました。そして、生化学物質の原則に基づく「科学から見た幸福」の視点がありながら、不快な時間>快い時間であってもそれに取り組むことで幸福感に満たされる「人生の意義」の視点について取り上げました。
「科学から見た幸福」「人生の意義」の二つの視点とは異なる視点について、同書では説明が続きます。同書の第19章から、少し長くなりますが、一部抜粋してみます。
3.汝自身を知れ
生化学物質から生まれる快感であれ、人生の意義を実感できることからくる満足感であれ、それらは束の間である。束の間は消えてしまうため、次の束の間を追い求め続けなければならない。また、特定の感情を追い求めている限り、それに当てはまらないときの苦しみもついてまわる。特定の感情の追求を止めれば、苦しみから解放されるというわけです。
古くから洋の東西を問わず、「中庸」(考え方や行動などが、ひとつの方向に偏らず穏当であること)は、人間にとって重要な徳目のひとつとされてきました。「内なる感情から離れる」ということには、中庸の概念に通じるものを感じます。
「私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう」でこの章が終わっています。このことからも、人間の幸福についてひとつの結論を見出すなど、簡単にできることではとてもないということがうかがえます。
そのうえでの私見ですが、前回から同書に沿って取り上げた、幸福に関連する下記3つの要素のどれか一択ということではないのではないかと考えます。3つの要素のブレンド、もしくは3つの要素(あるいは3つ以外の要素と)の行き来の中で、自分なりの幸福の状態を見出していくことになるのではないかと思います。
・何かを得たときに発生する、生化学物質の作用による快感。私たちに共通して生化学物質が作用するものと、自分にとって特に生化学物質が作用するものとがある
・人生の意義が満たされている、あるいは意義に向かえていると実感できることからくる満足感。何に人生の意義を見出すかは人によって異なる
・上記2つに伴う内なる感情の動きから離れ、自分自身を俯瞰しながら特定の感情を渇愛するのをやめることができたときに、静穏な幸福感に満たされる
これらを認識し、例えば「この束の間の満足感は、追う必要があるのか」「自分は今何かに偏っているのではないか」「この不快な時間は、自分が成し遂げたい意義に向かううえで必要なことではないか」「そもそも自分は何を意義と考えているのか」などの振り返りをすることは、自分の状態を自分でよい方向に導くことにつながると思います。
<まとめ>
「幸福」について、俯瞰して見る。