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幸福について考える(2)

前回は、『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ氏著)をもとにしながら、人間の幸福について考えました。そして、生化学物質の原則に基づく「科学から見た幸福」の視点がありながら、不快な時間>快い時間であってもそれに取り組むことで幸福感に満たされる「人生の意義」の視点について取り上げました。

「科学から見た幸福」「人生の意義」の二つの視点とは異なる視点について、同書では説明が続きます。同書の第19章から、少し長くなりますが、一部抜粋してみます。

3.汝自身を知れ

前述の二つの見方(科学から見た幸福、人生の意義)には、共通の前提がある。それは、幸福とは(快感であれ、意義であれ)ある種の主観的感情であり、ある人の幸福度を判断するためには、どう感じているのかを尋ねるだけで足りるというものだ。多くの現代人にとって、これは理に適っているように思われる。というのも、現代の最も支配的な宗教は自由主義だからだ。自由主義が神聖視するのは、個人の主観的感情だ。自由主義は、こうした感情を権力の市場の源泉と見なす。物事の善悪、美醜、是非はみな、私たち一人ひとりが何を感じるかによって決定される。

宗教や哲学の多くは、幸福に対して自由主義とはまったく異なる探求方法をとってきた。中でもとくに興味深いのが、仏教の立場だ。仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えられる。

幸福に対する生物学的な探究方法から得られた基本的見識を、仏教も受け容れている。すなわち、幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識だ。だが仏教は、この共通の見識を出発点としながらも、まったく異なる結論に行き着く。

仏教によれば、たいていの人は快い感情を幸福とし、不快な感情を苦痛と考えるという。その結果、自分の感情に非常な重要性を認め、ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになる。

だが仏教によれば、そこには問題があるという。私たちの感情は海の波のように刻一刻と変化する、束の間の心の揺らぎに過ぎない。五分前に喜びや人生の意義を感じていても、今はそうした感情は消え去り、悲しくなって意気消沈しているかもしれない。だから快い感情を経験したければ、たえずそれを追い求めるとともに、不快な感情を追い払わなければならない。だが仮にそれで成功したとしても、ただちに一からやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いは決して得られない。

人間は、あれやこれやの儚い感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間であることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。それが仏教で瞑想の修練を積む目的だ。瞑想するときには、自分の心身を念入りに観察し、自分の感情がすべて絶え間なく湧き起こっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るものとされている。感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れて消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け容れられるようになる。ああだったかもしれない、こうだったかもしれないなどという空想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのだ。

一生喜びの感情を追求するというのは、何十年も浜辺に立ち、「良い」波を腕に抱きかかえて崩れないようにしつつ、「悪い」波を押し返して近づけまいと奮闘するのに等しい。来る日も来る日も、人は浜辺に立ち、狂ったようにこの不毛な行ないを繰り返す。だがついに、砂の上に腰を下ろし、波が好きなように寄せては返すのに任せる。なんと静穏なことだろう!

幸福が外部の条件とは無関係であるという点については、ブッダも現代の生物学やニューエイジ運動と意見を同じくしていた。とはいえ、ブッダの見識のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるということだ。

仏教をはじめとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、あるいは何であるのかを理解することだとされる。

ひょっとすると、期待を満たされるかどうかや、快い感情を味わえるかどうかは、たいして重要ではないのかもしれない。最大の問題は、自分の真の姿を見抜けるかどうかだ。

歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、聖人たちの慈愛に満ちた行ない、芸術家の創造性に注目する。彼らには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。だが彼らは、それらが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう。

生化学物質から生まれる快感であれ、人生の意義を実感できることからくる満足感であれ、それらは束の間である。束の間は消えてしまうため、次の束の間を追い求め続けなければならない。また、特定の感情を追い求めている限り、それに当てはまらないときの苦しみもついてまわる。特定の感情の追求を止めれば、苦しみから解放されるというわけです。

古くから洋の東西を問わず、「中庸」(考え方や行動などが、ひとつの方向に偏らず穏当であること)は、人間にとって重要な徳目のひとつとされてきました。「内なる感情から離れる」ということには、中庸の概念に通じるものを感じます。

「私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう」でこの章が終わっています。このことからも、人間の幸福についてひとつの結論を見出すなど、簡単にできることではとてもないということがうかがえます。

そのうえでの私見ですが、前回から同書に沿って取り上げた、幸福に関連する下記3つの要素のどれか一択ということではないのではないかと考えます。3つの要素のブレンド、もしくは3つの要素(あるいは3つ以外の要素と)の行き来の中で、自分なりの幸福の状態を見出していくことになるのではないかと思います。

・何かを得たときに発生する、生化学物質の作用による快感。私たちに共通して生化学物質が作用するものと、自分にとって特に生化学物質が作用するものとがある

・人生の意義が満たされている、あるいは意義に向かえていると実感できることからくる満足感。何に人生の意義を見出すかは人によって異なる

・上記2つに伴う内なる感情の動きから離れ、自分自身を俯瞰しながら特定の感情を渇愛するのをやめることができたときに、静穏な幸福感に満たされる

これらを認識し、例えば「この束の間の満足感は、追う必要があるのか」「自分は今何かに偏っているのではないか」「この不快な時間は、自分が成し遂げたい意義に向かううえで必要なことではないか」「そもそも自分は何を意義と考えているのか」などの振り返りをすることは、自分の状態を自分でよい方向に導くことにつながると思います。

<まとめ>
「幸福」について、俯瞰して見る。

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