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幸福について考える

しばらく前から、友人主宰の読書会に参加し『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ氏著)をテーマに学んでいます。同書の後半で、人間の幸福について書かれている内容があり、印象に残っています。

幸福について考えるのは、あまりに大きなテーマです。同書にも、幸福についての研究は歴史的にも始まったばかりで、結論を出すにはあまりにも時期尚早、とあります。同書の内容も実に密度が濃く、私の理解もまだ限定的だと感じます。

そのうえで、同書の第19章「文明は人間を幸福にしたのか」の中にある項目立て3つに沿って、幸福について考えてみたいと思います。

1.科学から見た幸福

同書から一部抜粋してみます。

生物学者の主張によると、私たちの精神的・感情的世界は、何百万年もの進化の過程で形成された生化学的な仕組みによって支配されているという。神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニン、ドーパミン、オキシトシンのようなさまざまな生化学物質からなる複雑なシステムによって決定される。

宝くじに当選したり、家を買ったり、昇進したり、真実の愛を見つけたりしたとしても、幸せになれる人は誰一人いない。人間を幸せにするのは、ある一つの要因、しかもたった一つの要因だけであり、それは体内に生じる快感だ。たった今、宝くじが当たって、あるいは新しい愛を見出して、嬉しくて跳び上がった人は、じつのところ、お金や恋人に反応しているわけではない。その人は、血流にのって全身を駆け巡っているさまざまなホルモンや、脳内のあちこちで激しくやりとりされている電気信号に反応しているのだ。

この生化学に基づく主張を何よりもうまく捉えているのが、ニューエイジのよく知られたスローガン「幸せは身の内より発する」だ。

人生によって好ましいと思われる出来事があるが、その出来事自体が私たちを幸せに導くわけではない。私たちが幸せに導かれるのは、その出来事によって生化学物質が分泌される結果だというわけです。

この示唆を手がかりにすると、同じ出来事がある人を幸せにする一方で、別の人をそれほど幸せにはしない、あるいはまったく影響を与えないということについて、その経緯を理解することができます。

上記の例で、家を自己所有できるということが、極めて重要な人生観・価値基準の持ち主の人にとっては、家を買えたときに生化学物質に満たされて幸福感にあふれます。一方で、家を自己所有したいという願望がない人にとっては、家を手に入れても生化学物質はあまり分泌されず、幸福感にはつながらないと考えることができるわけです。

この科学的な視点に立って幸福を追求するならば、自分が何を得たときに生化学物質が作用して快感に満たされるのかを把握し、その何かを求め続けるのが幸福への道、ということになります。

2.人生の意義

しかしながら同書には、上記の科学の視点による幸福の定義には、異を唱える学者もいるとあります。同書からの一部抜粋です。

子供の養育にまつわる労働を例にとろう。カーネマン(ノーベル経済学賞受賞者)の研究から、喜びを感じるときと単調な苦役だと感じるときを数え上げてみると、子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。

労働の大半は、おむつを替えたり、食器を洗ったり、癇癪(かんしゃく)を宥(なだ)めたりすることが占めており、そのようなことを好んでやる人などいない。だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。これはつまり、人間には自分にとって何が良いのかがよくわかっていないことを意味するのだろうか?

そういう見方もできるだろう。だがこの発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを立証しているとも考えられる。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているというのだ。

幸福には重要な認知的・倫理的側面がある。各人の価値観次第で天地の差がつき、自分を「赤ん坊という独裁者に仕える惨めな奴隷」と見なすことにもなれば、「新たな命を愛情深く育んでいる」とみなすことにもなる。

あなたに生きる理由があるのならば、どのような生き方にもたいてい耐えられる。有意義な人生は、困難のただ中にあってさえもきわめて満足のいくものであるのに対して、無意味な人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練にほかならない

生化学物質の原則に沿えば、それをすることで、不快な時間>快い時間となることは、幸福から遠ざかる結果となるため取り組もうとしないはずである。しかしながら子供の養育のように、この原則に当てはまらず、わざわざ不快な時間>快い時間となる物事に私たちは取り組むことがある。

生化学物質の原則の上位概念とでも言うのか、生化学物質の原則を包括する要素とでも言うのか、その取り組むことに人生の意義を見出していれば、人生の意義を実感できていることをもってして幸福感に満たされるという示唆だとくみ取れます。

友人である株式会社カレッジ代表 紀藤 康行さんのnote「ネガティブな出来事が「性格の強み」を形成する?! ~自伝的記憶と性格の強みの最新研究~」に、次のような紹介がありました。

・「自分の重要な人生のエピソードを振り返ることで、どんな性格の強みが発揮されているかを見つける」ことについて紹介した論文がある。

同論文によると、自分にとっての重要な出来事として思い出された出来事の半数が、ネガティブな出来事だった

・重要な出来事は、「大局観」「勇気」「感謝」「スピリチュアリティ」「忍耐力」「向学心」「親切心」「社会的知性」「忠誠心」「愛情」「寛容さ」「感謝」などの強みの発揮や育成につながる。

(紀藤さんの挙げた論文を直接は読んでおらず、まとめているサマリーを見ての推察ですが)私たちはネガティブな出来事から学び、自分を生成発展させる機会にすることができる、という示唆だと認識します。言い換えると、自分がネガティブだと感じる物事を避ける必要は必ずしもないかもしれない、場合によってはむしろ、幸福に近づく過程にすらなりえる、ということです。上記の「わざわざ不快な時間>快い時間となる物事に取り組むことが幸福につながることがある」に通じるものを感じます。

上記について整理してみると、次の通りです。

・自分が何に人生の意義を見出すかを明確にする
・明確にした意義に向かっていると確信できる行動を重ねる
・それらの行動の中で出合う不快な出来事による不快な時間は、あとで振り返ったときに打ち消されて、人生の意義という大きな幸福感の中に統合されていく

これらは、当然と言えば当然のことなのかもしれません。そのうえで、なんとなく「苦労は買ってでもしたほうがよい」と思うだけではなく、人類史を考察した書物に沿って上記のような整理をしておくと、より自分を導きやすくなるのではないかと思います。

加えて、自分が意義を見出すことの実現まで時間がかかる場合、その過程で快い時間=生化学物質の発動がまったく何もない状態が続くのでは、私たちは耐えられないのではないかとも思います。

人生の意義を求める中で発生する快い時間を自覚するか、あるいは、意義とは直接は関係ない自分にとっての些細な快い時間をつくって生化学物質を発動させることを意識的に行うのも、必要なことではないかと想像します。

続きは、次回考えてみます。

<まとめ>
人生の意義が見いだせていれば、不快な時間>快い時間の構図も成り立つ。

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