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「要物必与」で考える

先日、経営者や経営幹部の方などが集まる勉強会に参加する機会がありました。その機会に、「要物必与」の考え方と「相手に惜しげなく提供する」ことの大切さが話題になりました。

「要物必与」とは、必要なものはそれを必要とするときに、ちょうどいい形で与えられるという考え方です。それは、目に見える物だけではなくて、チャンスやピンチとの出合い、人との出会いも含まれます。

ある経営者様が最近身のまわりで起こったピンチ、それに対してちょうど最近知り合った人や機関の力を借りて乗り切ったというエピソードを交えながら、紹介された言葉が要物必与でした。

出合ったことが困難や苦労という事実は、変わりません。そのうえで、「お手上げ」と思うか「自分に今必要だから与えられた」と思うか。捉え方を変えれば、その出来事への向き合い方もその後の行動も変わってきます。

加えて、そのとき出合った、手にとったもの、身の周りにあるものを、積極的に使っていく。出会った相手に対して惜しげなく提供していくことが大切なのではないか、という話になりました。その話の流れで、わらしべ長者の話が出てきました。

わらしべ長者の話はいくつかバリエーションがあるようなのですが、その中から「観音祈願型」の話についてウィキペディアから引用してみます。

昔、ある一人の貧乏な男がいた。毎日真面目に働いても暮らしが良くならないので貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。

男はお告げ通り、その藁しべを手に持って道を進んでいった。ところが彼の顔の周りを、大きなアブが飛び回り、煩くて仕方が無い。そこで男はアブを捕まえると、藁しべの先に結び付けてやった。

すると、傍で大泣きしていた男の子がアブが結び付けられた藁しべを欲しがるので男は観音様のお告げを信じて譲ろうとしなかったが、大泣きに手を焼いていた男の子の母親が「蜜柑と交換しよう」と申し出てきたので、藁しべを男の子に譲り、代わりに蜜柑を受け取った。

さらに歩くと、喉の渇きに苦しんでいる商人がいた。彼は男が持っていた蜜柑を欲しがり、持っていた上等な反物との交換を持ちかけてきた。男は蜜柑を譲り、反物を手に入れた。

一本の藁しべが上等な反物に代わったと喜んだ男は、旅の途中で侍に出会う。その侍は愛馬が急病で倒れてしまったが、急いでいるために馬を見捨てなければならない状況にあった。侍は家来に馬の始末を命じ、先を急ぐ。男は侍の家来に反物と馬の交換を申し出た。家来は反物を受け取り、そのまま侍の後を追っていく。男が水を汲んで馬に飲ませたところ、馬は元気を取り戻して立ち上がった。男は馬に乗り、旅を続けた。

道を進んでいくと、大きな屋敷に行き当たった。ちょうど旅に出かけようとしていた屋敷の主人は、男に屋敷の留守を頼み、代わりに馬を借りたいと申し出る。主人は3年以内に自分が帰ってこなかったら、この屋敷を譲ると男に言い出す。男は承諾し、主人は馬に乗って旅に出発した。

しかし3年待っても5年待っても主人が旅から帰ってくることは無かった。こうして男は屋敷の主人となり、裕福な暮らしを手に入れることができた。

交換していった物は、藁しべ→アブが結び付けられた藁しべ、蜜柑、反物、馬、屋敷、となります。

わらしべ長者の素晴らしい点は、手にとったものを惜しげなくいろいろな人に渡していったことだと、参加者の間で話題になったわけです。

持っているものをただ大切に持ち続けてもそれが発展していかない。別に社会から見返りを期待するわけではなく、純粋に目の前の相手に持ちうるものを提供していく。そういう積み重ねが、結果的に人生のバランスシートを大きくしていく。わらしべ長者の話の本質は、そのことにあるのではないかというわけです。

「要物必与」の考え方と「相手に惜しげなく提供する」
普段の行動に取り入れたい視点だと思った次第です。

<まとめ>
必要なものはそれを必要とするときに、ちょうどいい形で与えられる。

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