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「真面目」とは

以前、修身教授録という書籍に関連した内容をテーマにしました。今回も、同書の内容を取り上げてみます。

同書には、「真面目」ということについて、森信三氏による考え方が説かれています。一部抜粋してみます(所々中略)。

すべて人生において最も大事な事柄というものは、常に繰り返されるものです。ところが、そのように常に繰り返されることからして、次第に馴れっこになり、ついには言葉だけになって、事実と言葉とが離ればなれになるのです。そうなると、いかに重大な事柄に対しても、一向驚かなくなるのです。

真面目というような言葉もその一つであって、もう慣れっこになってしまったのです。そして「ナンダ珍しくない」と思うんです。否、うっかりすると「なんだ」とさえ感じなくなったとも言えましょう。

ところが今この真面目という字を、真という字の次に、「の」の字を一つ加えてみたらどんなものでしょう。そうしますと、「真の面目」と読まねばならぬことになります。こうなると、一つの新たなる展開となりましょう。すなわち、真面目ということの真の意味は、自分の「真の面目」を発揮するということなんです。

こうなると、言い古された、最も平凡と思われていたこの言葉が、ここに一つの新たなる力を持って臨んでくるのです。自分の真の面目を発揮しようとしたら、何よりもまず全力的な生活に入らねばなりません。かように考えてきますと、いわゆる「真面目」という言葉の真意は、普通に「まじめ」という言葉のリズムによって、ともすれば誤り考えるような、単に無力なお目出たさでないことが分かるでしょう。

森氏の言うとおり、私も「まじめ」という言葉のリズムによって、「真面目」という言葉の真意を無力なお目出たい認識で誤解していた1人だと感じます。

小学校時代から聞いてきた「まじめ」という言葉は、「融通が利かない」「やりすぎて損をする」「馬鹿正直」といった意味合いで使われていたように思います。なんとなく人をからかうときや、若干馬鹿にしたような、場合によっては見下したような場面で使われることが多かったイメージです。

社会人となって、「真面目」という基本姿勢の尊さや、成果を上げた経営者やビジネスパーソンが総じて愚直、真面目に仕事に取り組んでいる、という話を聞くこととなります。そうして多少「真面目」の真意が復権するのですが、それまでに慣れっこになってしまったことで「ナンダ珍しくない」ものと捉えてしまい、自分の内面へ十分に訴えかけてこないと感じるのは、私だけではないように思います。いかがでしょうか。

オンライン辞書を参照すると、「面目」について大きく2つの意味で説明されています。

1 世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。
2 物事のありさま。ようす。

どちらの意味に対しても、「真の面目」を発揮するには、容易ではないことが想像できます。森氏は、次のように説明しています。

人間はいつも「マアこれでもすむ」という程度の生温い生き方をしていたんでは、その人の真の面目の現れようはないでしょう。

たとえて申せば、卒業後普通の人は、たいした努力もしないでいて、俸給が上がらないと言っては、陰でぶつぶつと不平を言っているようですが、これに反して真実の態度とは、全力を挙げて、努力また努力、そして嶄然頭角を抜いてはいるが、しかし法規のために、規定の年限内には昇給させることができず、どうも気の毒だと心ある人々をして感ぜしめるほどの全力的生活をするんでなくてはならぬのです。

真面目とは、その努力において、常に「百二十点主義」に立つと言うことです。もしこの態度を確立したならば、人生の面目はすっかり変わって来るでしょう。

真の面目を発揮することを意味する「真面目」。もっと尊重されるべき言葉だと感じます。

一方で森氏は、「一時一事」とも言っています。私たちが何か事をなすにあたって、今自分のなすべき仕事のうち一番大切なものに集中し、それ以外の一切のことを一時思い切って捨てる必要がある、一気呵成でないと事ははかどらない、と説いているわけです。

やるべきことに集中し、百二十点主義で取り組み、真の面目を保っていると言えるか振り返る。新年度に当たって、取り込みたい心がけだと思います。

<まとめ>
まじめとは、真の面目を発揮することである。

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