清濁併せ呑み、良き種を蒔く
先日、私が参加している「知心会」の11月の定例講に参加しました。「知心会」では、ありのままの己の心を観ながら仲間と共に研鑽する機会の一環として定例講があります。
知心会では、心がけるべき「二十則」があります。二十則は、生きる道しるべのようなものとされています。
この日に取り上げられた二十則の中から、「良き種を蒔く」と「併せ呑む」について印象に残りました。
・良き種を蒔く
心に良い種を蒔く。日々、言葉に気を付け、素直な心で感謝をもって生きる。良い種は、良い実りがある。
・併せ呑む
清濁併せ呑む。心を広く持ち、善でも悪でも分け隔てなく呑み込む度量を持つ。
「良き種を蒔く」と「併せ呑む」について、当日の講話内容も振り返り、ポイントは2点あると感じました。ひとつは、因果応報です。
因果応報:人の行いの善悪に応じてその報いも善悪にわかれるということ。仏教のことばで、「因果」は、因縁(原因)と果報(報い)。ある原因のもとに生じた結果・報いの意(goo辞書より)
良い種を蒔き続ければ、良い実りとなって実現していく。逆に言うと、悪い種を蒔けば悪いことが実現する。悪い種を蒔いても短期的にはうまくいくかもしれないが、長期的にはうまくいかず、ごまかしは効かないというわけです。
定例講では、因果応報について悪口や陰口を例に考えるお話があり、とても腑に落ちました。
人の悪口や陰口をたたくのは良くないと言われますが、なぜ良くないのでしょうか。因果応報の観点から考えてみると答えは明白です。それは、悪口や陰口をたたくとそれが悪いこととなって回りはじめ、めぐりめぐって自分にも返ってくるからです。
ひとつの物事やひとりの人で、善か悪だけということはないはずです。100%完全と言えるものがないならば、不完全と言い切れるものもない。瞬間的に「清だ」「濁だ」と反応してそのまま行動に移すのではなく、分け隔てなく呑み込んで、自分なりに良いと思える状態にしたものを外に吐き出す。そうすれば、長期的にはよい報いの循環に身を置けるはずだということです。
ポイントのもうひとつは、何に時間を使うかです。
悪口・陰口に熱心ということは、人の悪いところを探す努力をしているということです。他人の中で、自分が気に入らないと思うところにわざわざ焦点をあてに行って、それを言語化する。そのようなことに時間を使うのは実に非生産的であり、時間の無駄としか言いようがありません。
時間は有限です。そのような時間があるならば、清濁併せ吞んで忘れてしまい、よい因果応報の流れが生まれる別の物事に時間を使ったほうがよいというわけです。
自分と違うから恕(ゆる)せない、受け入れないという小さな態度ではなく、笑って受け止める態度が大切である。昨今「多様性」がテーマとして言われていますが、その前提として各人に清濁併せ呑む器の足腰が必要なのだと思います。
恕す心で清濁を併せて吞み続けて、器を大きくしていく。
たいへん難しいことだとは思いますが、一歩でも日々進歩していきたいと、同定例講を通して感じた次第です。
<まとめ>
恕す心で清濁を併せて吞み続けて、器を大きくしていく。