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その光は、相手からも見えているか?

先日、ある住職の方のお話をお聞きする機会がありました。その際、「無明(むみょう)」について話題が及びました。

無明とは、仏教用語で無知のことを表し、苦の根源でもあるとされているものです。

コトバンクでは、次のように説明されています。(一部抜粋)

①仏語。存在の根底にある根本的な無知をいう。真理にくらい無知のことで、最も根本的な煩悩。生老病死などの一切の苦をもたらす根源として、十二因縁では第一に数える。
②まったく知らないこと。また、そのさま。

これを読むだけでは、私のような初学者にはその真意がわかりにくいと思います。
同住職様からは、次のようなわかりやすい説明を受けました。

「無明は仏教の根本的な考え方である。無明というのは、光が見えない状態。私たちは、希望の光が見えていることが重要である。光は必ずあるはずで、そこに気付けるかどうかである。自分はどこに向かっているのか、光という目的地が持てないときに私たちは不安になる。不安について回るのが苦しみなのだが、光が見えれば不安も和らぐ

ある方から、次のようなエピソードを聞きました。

「仕事で難航し、収入的にもピンチの状況だが、配偶者には現状の話をあまり共有しないでいた。事細かに伝えると、配偶者を心配させてしまうと思って、自分なりに気をつかったつもりでいたやり方だった。しかしながら、最近になって、その行動がかえって配偶者を心配させる結果になっていたことに気付いた。

自分としてはどうすべきかの課題も明確で、課題解決の行動あるのみという意識だったが、配偶者としては、その課題は見えておらず、相手(自分)がまずそうな状況が何となくわかるのだが説明がないために何が起こっていてどこまでまずいのかもわからず、先が見えない状態になってしまっていたわけだ。

現状の説明だけではなくて、普段言ってないことがいっぱいある。感謝しているということも言っていない。面倒だから。「これぐらい言っておけばいいだろう」と、自分の感覚でそうしていたが、配偶者にとっては真っ暗な状態だったのだと思う」

同住職様のお話を手がかりにすると、この配偶者の状態がまさに無明だと言えるのではないかというわけです。

これと同じことは、仕事や職場でも起こりがちだと思います。

・自組織が置かれた状況はAである。それに対して、課題となる打ち手はBである。Bを解決すればCのような改善後の未来を描ける。Cになりたいから、Bに取り組もう。それをこれまで発信もしてきたので、ABCについてはメンバーも聞いているはずだ。

・しかしながら、周りのメンバーはそれほど意欲的に見えない。なぜBに意欲的になれないのか。Cを目指したくないのか。理解ができない。

特に、意思決定権を持っているリーダーや、プロジェクトの全体が見えている主導者が、他のメンバーに対して起こしがちな構図だと言えます。

そのうえで、上記エピソードのようなことは起こっていないか、振り返ってみる必要がありそうです。つまりは、本人が描いているようなAやBやCを、そのメンバー間でも同じように描けているのだろうか。本人には見えている光が、果たして周りのメンバーにも見えているのだろうか。周りのメンバーは、無明の状態に陥って、苦しんでいるのではないだろうか。

自分と他者は異なる存在です。自分目線で「周りの人たちにも光が見えているだろう」と思っていても、果たしてそうなのか。振り返ってみたいところです。

さらに、同住職様は次のように話されました。

人生はそもそも苦しいものである。苦しみをどう楽しめるかが大切である。コーヒーもビールも、苦さがおいしい。苦いは苦しいと書く。コーヒーのごとく、苦しみの中に楽しさを見出すのである

深い言葉です。

手元にあるコーヒーを飲んでみましたが、いつもと少し違う味わいがするような気がします。

<まとめ>
相手も光に気づいているかは、わからない。

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