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全部自分でやらねば、の思い込み
先日、起業家の知人とお話する機会がありました。
その方は、他者へ行動変容を促すコンサルティング業務なども手がけている方です。家庭内で子育ての大半も担っています。
お聞きしたお話の一部は、次のような内容でした。
・子どもも高校生になっている。しかも、レシピのYouTubeを見るなど、料理することへの関心も高い。自分が料理をつくれないときには、子どもに1食分のお金を預けて「総菜を買って食べてもいいし、食材を買って自分で作ってもいいし、どっちでもよい」と対応方法を選ばせている。
・先週1週間、連続で夜に外出する予定が決まっていた。上記の対応で何か不都合が出ているわけではないのだが、さすがに1週間ものあいだ夕食の準備を自分で何もしないというのは、(自分の中で)気が引けた。
・1週間のうち、16:00ぐらいまで在宅で対応する(その後に外出)日が2日ほどあった。この2日は昼に作り置きをしておき、夜温めて食べてもらうことで、1週間の中でせめて2日は自分で食事を準備しようと考えた。
・その2日間のうちの初日、昼間に料理を始めたのだが、かかってきた電話への対応などもあり、途中まで作ったところで出発時刻になった。「間に合わなかった、どうしよう」と思った矢先、子どもがたまたま早めに帰宅してきた。そこで「ここまでやっといたから、続きだけやってくれる?」と頼んだところ、「ここまでやってくれたんだ。ありがとう。OK」という返事を聞き、すぐに出発した。
・2日目も、カレーを途中まで作ったところで出発時刻になった。具材を煮込むところまでやったが、後半の工程のルウを溶かして煮込むところに至らなかった。罪悪感がありながら、「悪いけど、ルウを入れて煮込むところをやってくれ」とメッセージを残して出発した。帰ってから話しかけたところ、「途中までやってくれていて、ありがとう」と言われた。
その時、同知人はふと気づいたそうです。
「私は、何に罪悪感をもっていたのだろう。最初から、他力(子ども)を借りて課題を解決する前提でやればよいのではないか」
そして、次のような振り返りをしたそうです。
・この料理の件については、自分の中で無意識のうちに0か10かだと思っていたようだ。つまりは、自分で夕食を作ると決めた2日間は、作り切れば10、作り切ることができなければ0、のように捉えていた。
・しかしながら、目的は同じでも、それを達成するための手段や自分が請け負う範囲は、いろいろある。0と10以外に、3や5や7という答えもあるはず。
・そもそも、子どもは料理に関心ももっている。1週間連続で夕食を子どもに任せること自体に、罪悪感をもつ必要すらないのかもしれない。しかし、1週間丸投げすることは自分の心情が満たされないから、それはしたくない。だとしても、目的は変えずに、一部の工程を他力の前提にするのは、ありではないか。最初から協力を求める発想をすればよかったのではないか。
同知人が1週間のうち最終日に打ち合わせを予定していた仕事は、なかなか成果が上がらず悩んでいたそうです。しかしながら、上記の振り返りをしたことで他力を活用するという発想に至ったそうです。最終日の前日に、その仕事のテーマに通じていて、同知人のことをよく知る人物に連絡を取り、協力を取り付けたうえで、他力を活用する前提で最終日の打ち合わせに臨めたそうです。
冒頭でも触れたとおり、同知人は行動変容のテーマでプロとして活動している方です。上記のエピソードから思ったのは、そのような方であっても、
・他力を活用するというのは、発想としてなかなか出てこないことがある
・全部自分でやろうという前提にとらわれがちなもの
だと言えるのではないかということです。
もちろん、各人の責任範囲を明確にすることは大切です。そのうえで、目的を達成するための手段は無数にある。他力を明確に活用することを前提にしてもよいわけです。
普段の仕事や家の中のことで、私もこのエピソードと同じような固定観念にとらわれていそうだと、振り返った次第です。
<まとめ>
他力の活用を前提にするのもあり。