魂について考える
先日、私が参加している「知心会」の12月の定例講に出席しました。「知心会」では、ありのままの己の心を観ながら仲間と共に研鑽する機会の一環として定例講があります。12月の定例講にて感じたことをテーマにし、私なりの見解と解釈をまとめてみます。
定例講では「魂」についての話がありました。
私たちには、木の年輪のイメージで、中心から外に向かって順に「魂」「観念」「感情」「五感」があるのだそうです。
五感は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。
感情には次の7つの「七情」があると紹介されました。
「喜」よろこぶ
「怒」いかる
「哀」かなしむ
「楽」たのしむ
「畏」おそれる
「恩」おん
「仇」あだ
「観念」は、物事について抱く考えや意識です。私たちが学校、企業、コミュニティーなどと関わりながら、教育を受けたり経験をしたりする中で、社会生活を行う上で必要となるさまざまな学びをしていきます。その学びが、観念をつくっていきます。
そのうえで、観念には「固定観念」という存在も伴います。goo辞書によると、固定観念とは、「いつも頭から離れないで、その人の思考を拘束するような考え」と説明されています。私たちは日々のさまざまな学びの結果、本来はそうすべき必然性や前提がないことについても、「○○はこういうものだとされている」のように、固着化した思考の枠組みをつくり出してしまうこともあります。
私たちの思考や行動は、往々にしてこの固定観念が支配的になります。固定観念に紐づいた思考ですぐに何かを「よい」「悪い」「こうすべき」と物事に対して無条件に結論をくだしてしまい、心が本来選ぶべき選択に至らないわけです。
goo辞書によると、魂とは、「生きものの体の中に宿って、心の働きをつかさどると考えられるもの」と説明されています。五感で得た事実情報や感覚が感情につながり、その流れを受けて固定観念が「このようにすべきだ」と魂に働きかけて、行動する。これが、「外から内」=「魂は肉体の付属物である」の捉え方です。
たしかに、日常の活動を振り返ってみると、例えば次のような流れを認識できます。
・あるテーマについて進むか止まるか決断すべき場面に出合った→進んでみたい気もするが、進むとなると自分に変化を求められるため恐れを感じる→そのテーマは安易に進むべきではないといろいろなところで聞いてきた→自分は止まることを求めているのだと認識し、止まるという決定をする
・嫌なものや嫌な行動を見た→腹立たしい→その物事やその人は避けるべきものという思考の枠組みをつくる→自分はその物事やその人を避けるのを求めているのだと認識し、避け続ける。本来は、その物事やその人にも多面性があり、かかわり方を変えればその後の展開も変わるかもしれないが、そうは至らない
「肉体は魂の付属物である」とは、逆の流れになります。つまりは「内から外」の、次のような捉え方です。
・心が本当は何を求めているかを自覚し、
・固定観念に縛られず、
・感情の瞬間的な反応に対して自分なりにうまく折り合いをつけながら、
・五感で得た事実情報や感覚に対して、自分の魂が決めた行動を実行する
・そこから得た結果を観念に追加し、取り払ったほうがよい固定観念は打破する
それでは、「内から外」の流れをつくるにはどうすればよいか。
続きは、次回考えてみたいと思います。
<まとめ>
肉体は魂の付属物である。