おりんピッグについて
まずは、人の身体的特徴を侮辱した話の前に、オリンピックを「ピッグ(豚)」に読み替えて作ったというあの案について。
センスがない。つまらない。オリンピックの開会式がどういうモノか全然わかってない。
だから彼が演出から引いてくれるのは賛成だ。演出家としての能力がないからだ。日本にはもっと優れた演出が出来る人たくさんいるはずだからだ。もし東京オリンピックが本当に行われるなら、世界中が見るイベントだ。あんまり恥ずかしいものを出さないでほしいと思う。
ただ、一言言いたいのは、倫理観で芸術を評価するのは間違いだと言うことだ。
芸術表現(イベントの演出もそうだが)を倫理的な側面で見ていくと、成立しなくなるという事実がある。どんな芸術表現でも、必ず人間の心理、つまりコンプレックスと裏表の関係にある。
今回は、容姿をネタにしたことで、欧米からの非難が来ることを前提に、演出家が辞任したわけだが、それになぞらえて、あるテレビ局が、厚切りジェイソンに意見を求めたらしい.(アメリカ人で日本で芸人をやっている人)
すると、厚切りジェイソンは、「アメリカでは自虐ネタがほとんどない。スタンドアップコメディーも自虐ネタはほとんどない」と言ったそうで、だから日本の自虐ネタのコメディーセンスは世界に通用しない(遅れている)という事を言いたかったようだが、そもそもスタンドアップコメディーに自虐ネタがない理由を、彼ははき違えている。
彼は今のスタンドアップコメディーを見てそう言ってるんだろうが、だとしたら全く間違っている。
スタンドアップコメディーは自虐ネタは少ないかもしれない。それは自分を卑下した自虐ネタが少ないという意味でしかなく、倫理的だという意味とは真逆である。
スタンドアップコメディーはそもそも自虐ではなく、他人をおとしめることで成立していた芸だ。
例えば人種差別、性的差別のオンパレードだ。黒人をネタに叩きまくる。女をネタに叩きまくる。これはBARで酔っ払いが集まって盛り上がる下品な話そのものが基本だ。下品であればあるほどいいわけだが、それがただ下品では芸にならない。下品でありながらセンスがある。思わずクスッと笑える。ぎりぎりのところですり抜ける。黒人を叩いていたと思ったら、実は叩いている白人を馬鹿にしているとか、ともかく周りの全てを叩きまくって、客も叩いて、すり抜けて逃げるというきわどい芸を楽しむのがスタンドアップコメディーだった。
あまりに悪口のオンパレードなので、日本では流行らなかったのだ。
当然、現代このスタンドアップコメディーは成立しないだろう。おそらく今有名なスタンドアップコメディーは、こうした下品な叩きはなくなっているだろう。人種差別も、性的差別も、すぐ批判されるから出来なくなっているという話を聞いたことがある。
確かに日本では、演じているコメディアン本人が自虐のネタを作ることが多い。それはあくまでも自分をネタにしているわけで、つまり太っている人が太っている自分をネタにし、頭髪がはげている人が、はげをネタにするという意味である。
他人をネタにしているのではなく、太っている人全般をネタにしているわけではない。しかし当然自分をネタにするのだから、そこにはポジティブな表現がある。自虐を反転させ、笑い飛ばし、ポジティブでチャーミングな印象に至る。自虐しながら、実は上から目線を秘めている。
太ってないおまえ達にはわからないよな、ざまあみろ。ということだ。
自虐ネタの基本はここにある。これは日本の文化に根ざしているという論があったのだが、そうかもしれない。
例えば、敬語は日本語にも他の言語にも存在するが、敬語の一形態である謙譲語は、外国語にはほとんど見受けられない。
謙譲語とは、自分を下に置くことで、相手を持ち上げる敬語だ。謙る(へりくだる)意味だ。
「おっしゃる」は相手が「言う」「しゃべる」事を敬語で表現している。この場合、自分は敬語を使わず、「言う」「しゃべる」でいいわけだが、これを謙譲語にすると「申し上げる」になる。
日本の文化はしばしば、自分が謙るという形によって成立している。
この文化的な違いが、自虐ネタを作る日本に通じてはいるだろう。他人をおとしめるより、自虐する方が受け入れやすいととらえられる。
そもそも厚切りジェイソンの芸は「Why Jpanese people」なんだから、彼がおとしめて芸にしているのは自分ではなく、日本人だ。客である日本人はアメリカ人の彼が疑問を持っているということで笑っているが、おとしめられているのは日本人の方で、彼はまさに昔のスタンドアップコメディーをやっている。自虐ネタではない。他人をおとしめる昔のスタンドアップコメディーだ。
しいていえば、日本では客の大半は日本人で、その中で少数派の白人が疑問を呈している形だから、叩いている芸人本人が少数派だ。スタンドアップコメディーは先のも言ったように、どの相手を下品に叩くかの技術である。白人が黒人を叩くだけでは芸にならない。黒人芸人がが黒人を叩くと見せかけながら、白人も叩く、どの人種も叩く、そして客も叩く。この絶妙さが芸だ。厚切りジェイソンの芸がそこに至っているかどうかは疑問だ。自分(白人)の叩き方が弱いからだ。
また、ある意味では、日本の中で外人が無知から来る疑問を呈しているので「ああそうみえるんだ」と上から目線で笑っている客、の構図を作っているとみれば、厚切りジェイソンの芸は、まさに自虐ネタだ。
長々と書いてきたが、何が言いたいかというと、容姿を差別する文化は、日本の独特な文化ではなく、むしろ欧米の方がひどかった。という事実。
どっちにせよ、容姿による差別は許されることではないが、それは日本だからあるという問題ではない。差別をなくすことは意義がないが、そのたびに「欧米から遅れている日本」みたいな言い方をするのは事実に反すると思う。そういう間違った見方は、ものの見方を歪曲すると思う。
単に、悪い事は悪い...でいいと思うが。
で、話を戻すと
芸とか芸術とかそういうものは、人間の生活に密着しているので、もっと言えば、人間の営みの隅々までほじくり返してネタにしているのだから、いろいろなものが出てきて当たり前である。
そして何より
芸術の価値は、倫理的価値とは全く別!
である。
ということで、太っている人をネタにしたから悪い芸で、ネタにしていないからいい芸ではない、という事を強く言いたい。私が主張したいのは、
「オリンピック」を豚になぞらえた演出は、単に、
センスがない!つまらない!
ということだ
特に本来、オリンピックスタジアムと言う大きな舞台で、多くの観客がリアルに見ている場所で、1人の女性が現れて、子供が「オリンぴっぐ(豚)だ!」と叫んだところで、見えないし、インパクトもくそもない。
せまーいライブハウスで、唾がかかるような所に客がひしめいているところで、マイク立てて、一人でまくし立てるから、スタンドアップコメディーが成立するように、このネタは芸人が舞台で小さくやるからこそわかるネタで、それでもセンスない気がするが。。。
まあ、この演出家は「安部マリオ」をやった人だ。あれを見たときセンスの悪さにげんなりした。前半の演出は椎名林檎だったと思うが、日本がやったにしてはずいぶん洗練されていて、面白いと思ったのだが、あげくに土管が出て、マリオが飛び出して、「ああ、日本のアニメ文化とかそういう演出ね。まあベタだけど、外国には日本のアニメは有名だし、ゲームとしてはマリオは世界的人気だし、わかりやすいネタとしてはありか。。。」と思ったら中から安部首相が出てきて、「。。。政治家に日和ったのか。。。」と、がっかりしたのを覚えている。
前半の演出との落差にも興ざめした。本番の東京オリンピックではこういう恥ずかしい演出は辞めてほしいなと思っていた。
私的には当初の開会式の演出人は、それなりに期待していたのだが、このようになって、演出人が縮小されたあげくに残ったのが、安部マリオの人だったと言うことで、イヤーな予感はしていた。だが今の日本は、オリンピックの開会式がどうなるかごときの問題ではない状況だったし、いっそ無観客にしてしまえば、放送する映像だけの開会式だから、演出の質は全く変わってくる。
ただそれでも「オリンぴっぐ」は辞めてほしいが。
問題は、開会式の演出として優秀な演出家を選んでほしいと言うことだ。今日本にはこの手の演出に長けた演出家は結構いるはずだ。若手にも才能ある演出家は多いはずだ。プロジェクションマッピングも技術は高いと思うし、放送に限定するなら、それこそアニメを初めとした映像演出は専門家がかなりいる。
ともかくいい作品を作ってほしい。
そして今回の「オリンぴっぐ」演出家が辞任に追い込まれたのは、倫理的な面の欠落と言われているが、(そうなんだろうが)何より注視してほしいのは、演出家としての能力のなさである。この人にはセンスがなかった。それが一番の理由だと声を大にして言いたい。
どうしてかと言えば、「倫理的ならば、優れた演出」とはしてほしくないからだ。それは芸術の質を下げる方向にしか働かない考えだからだ。
あくまでもこの演出家がセンスがなかった。という事を注視したい。