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記者会見をしない話

 大阪なおみさんが全仏オープンで、記者会見をしないという発表をした。

 試合前から主催者側とは交渉していたと表明している。だから記者会見拒否がこの時期になったのは単なる偶然だという事だ。

 主催者側(全仏オープン)並びに、4大タイトルの主催者は合同で、「記者会見は義務であり、拒否を繰り返すなら、4大タイトルの出場を認めない可能性があると警告している。

 もしこの話がもっと前なら、大阪なおみのわがままだと思ったかもしれない。だが、現在日本は、東京オリンピックに伴って、IOCというオリンピック協会の、信じられないほどの横暴に接している。正直、ここ1~2年で、IOCやオリンピックに対する気持ちは、全く変わってしまった。

 このたび、大阪なおみの話を聞いて、このテニス大会の主催者が、IOCと同じように、クズではないかという疑念がわいてしまう。アスリートを道具としか見ておらず、自分たちの金儲けだけに注目する、上から目線の鼻持ちならない集団ではないかと。

 本当にテニスが好きで見ているファンなら、負けた選手が号泣するところを好んでみたいだろうか。いろいろな記者に、聞くに堪えないような質問に困っている姿を見たいだろうか。私は特にスポーツが好きなわけではないが、スポーツはそれそのものを見るのが楽しいのであって、前後の選手のインタビューは付け足しだと思う。ファンはどんなことも知りたいと思うから、インタビューも何でも見たいと思うんだろうが、でもそれはファンの気持ちであって、プロスポーツの選手側にとって、正直関係ないことだ。

 ファンの人気のよって、チケットが売れて、試合が成立する。試合は興行であって、それはファンによって支えられている。

 それは本当だ。

 だがこの仕組みについて、もう一度考え直す必要はないのだろうか。

パトロンによって支えられるスポーツ

 あえてパトロンと書いたのは、スポンサーとは違うと言うことだ。現在ではパトロンと呼ばれる存在がそれほど目立たなくなってきていると思うが、本来パトロンとスポンサーの違いは、パトロンとは金を出して、選手を育てる存在であり、スポンサーはその選手によって自社の宣伝活動を行う代わりに、選手が活動に必要な資金を提供し、またそれ以上の報酬を払う存在だ。

 本来のパトロンに対して返すものとは、良い選手に成長して、良い試合をして、スポーツに造詣が深いパトロンを満足させることだ。もしくは、単に人間的成長を望んでいるパトロンなら、その成長を見せて満足してもらうことだ。パトロンは、良い人間、良い選手を育てた事に自らの満足とプライドを感じ、それがパトロンが望む全てだ。

 パトロンとは「金は出すから言うとおりにしろ」という、根性の小さい人間のことを言うのではない。本来のパトロンは、十分な資産と余裕と見識があり、それを社会における希有な才能を伸ばすために使う存在のことを言うのである。

 現代では、こんなパトロンは皆無かもしれないが、時代が進んで良いパトロンが存在しなくなってきたことに従って、興行という形でのサポートが増えてきたのだと思う。スポンサーは、無条件に金を出すわけでも、選手の将来のために金を出すわけでもなく、今の自分の商売のために金をだす。興行主は、選手が試合をしてそれを見る人が集まって初めて儲かる商売をしている。

 だから選手は、彼らを儲けさせ、且つ自分も儲け、活動が続けられる基盤を作るために参加する。

 これにおいて、選手、興行主、スポンサーはWinWinの関係のはずだ。つまり同等のはずだ。

 しかし現実には、選手の立場はそれほど強くない。

 興行主とスポンサーの立ち位置関係は、ひとえにいかに金を稼ぐか、という事が基本になっている。儲かる興行なら、スポンサーに対して興行主は大きな顔が出来るが、逆の場合は、スポンサーにすり寄ってお金を出してもらうしかない。だがそこで基準になるのはあくまでも金だ。

 その狭間にあって、選手が大事にされないことは多かったと思う。

 スポーツやエンターテイメントは、直接的な生産性がわかりにくい。興行としての経済生産性という事は目に見えるが、それは旧来的な、額に汗して働く事とは馴染みにくく、そこで表舞台に立つアスリートに対しても、ちょっと異質な者としてみる目があったと思う。これは日本の昔からの考えとしては普通だったし、日本ならずとも普通だと思うが、そこに、スポーツをしてそれを観客に見せること、エンターテイメントを見せることは、観客を楽しませ、観客(一般の市民)の力になっている。このことを考え直せば、一見生産性とは関係ないように見えるスポーツやエンターテイメントが、実は人が生き、社会が存続していくために非常に重要な要素である事がわかる。

 こうしたスポーツやエンターテイメントを選手やエンターテイナーは、希有な才能の持ち主であり、こうした才人は、周りが理解して守り育て手こそ花開く。ここに考えが至ったというのが、スポーツやエンターテイメントを取り囲む時代の流れである。

 これを訴えてきたのは興行主の側であった。それに共感した社会があり、その社会の理解に押されて、スポンサーが生まれてきている。

 だが、訴えている事の美しさに反して、興行主とスポンサーの実態は、単なる金儲けにしか興味のない集団であった。

 興行主は金儲けをいかに出来るかを考え、それに必要な演出をしたまでで、本気でアスリートのことを考えていたわけではなかった。当然金を払う多くの市民のこと、アスリートを本気で支えようとしている市民のことなどは、全く考えていない。彼らに興味があるのは、市民の頭の中の崇高な思想や純粋な思い出はなく、懐の中であった。

 興行主にとって見えているのは札束であり、いかに札束が自分たちに入るかであって、それを妨げることは全て排除してきた。

 やはり、今思うことは、テニスの興行主もみんな、糞だと言うことだ。

 意見は全て、バイアスがかかっていると考える

 こうしてみると、興行主が言い立てるお題目は全て、何らかのバイアスがかかっていると考えた方が良さそうだ。アスリートに対するリスペクトも、実は興行主にとっては、金儲けのための効果的な演出に過ぎなかった。今風にいえば「ストーリー」である。ストーリーのある商品はより高く売りつけることができるからだ。

 大坂なおみさんの会見拒否に対して、一斉に他の選手が疑問と批判を投げかけ、興行主側は、一斉に制裁を加えようとした。そのことの違和感を感じたのは私だけだろうか。報道を聞いただけで直感したのは、テニスの興行もIOCと同じように糞なのだと言うことだったが、それだけでなく、同じ立場にあるアスリートが、彼女を支持しない、全く支持しないという状況がすごく不思議だった。さらにあまりに高圧的な4大タイトルの興行主側の反応を見ると、彼女はスケープゴートにされて、見せしめにされるのだ漏斗言うことだった。興行主側がそうすることを決めたのである。

 この興行主に争うことは、自分のアスリートとしてのキャリアを台無しにすることだと言うことに、アスリート側は気がついたという事ではないかと思った。だから誰も大坂なおみさんの見方をしなかった。アスリートの中には、本気で興行主側の意見を正しいと思った人もいたかもしれないが、その考え自体が、長年のアスリート生活の中で、周りからすり込まれた嘘だと言うことに気づいているだろうか。

 選手が取材を受ける事は、スポーツとは何の関係もない。興行上そうしてくれた方が効率よくファンを引っ張れるからそうしているだけだ。選手自身がそれを知っているから協力するのだというと、とっても美しい協力関係を思い浮かべるが、取材に協力しないで同じ利益を上げるという方法を思案したことがないという事実も考えた方がいい。巨大な興行主は、選手1人1人の取材がなくても、いくらでもファンを引きつける武器を持っている。何より、ビックネームを並べて試合をすれば、喜んでチケットを買ってくれるファンがいくらでもいる。

 取材をしたくないという選手を矢面に立たせる絶対的な理由は、実は存在しない。興行主側にとって、都合がいいからそうしているだけだ。

 ルールが間違っているかどうかを考えるべき

 そもそもやりたくないことをしないのは権利である。といっても社会で暮らす以上、一定のルールは守るべきで、結果としてやりたくないことをしなければならないときもある。

 この場合のルールは法律になるが、大坂なおみさんが強要されているルールというのは法律ではない。単なる興行主が決めたローカルルールだ。ローカルルールは、法律より上には存在しない。

 記者会見は義務であると言うことを正当化する法律はない。

 大坂なおみさんが記者会見をしたくないと表明し、それを強要するルールはおかしいというのは、至極当たり前のことである。


 今朝大坂なおみさんは全仏オープンを棄権すると表明した。

 そして鬱病である事を示した。

 どうして最初からこれを言わなかったのかと疑問に持つ向きもあるだろう。だがこれを表明したら、単なる鬱病患者が、かわいそうな鬱病患者が、病気を癒やすための特別なケースになってしまう。

 だがこの問題は、そういう個人の、特別の問題ではない。

 もっと大きな問題だ。

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