小説:ボイラールーム
僕の夏休みは犬に食べられてしまった。
犬は首をかしげるばかりだった。
かわいい顔をすればなんとかなると思っている。
そして、僕がまんまと許してしまうことを知っている。
僕はなんとか犬に状況を説明しようとしたが、犬は遊んでもらえていると思ってはしゃぎまわるだけだった。
これだから犬は、と思ったが、そもそも犬に説明すること自体が意味のないことだと気付いた。
とにかく、夏休みがはじまってまだ二週間だというのにほとんどが細切れにされてしまった宿題たちをどうするか、僕は考える必要があった。
つなぎ合わせて元に戻す、というのはおそらく無理だろう。
ばらばらのプリントのパズルを完成させるだけで夏休みが終わってしまう。
さらにそれを解くとなると、僕は大人になってしまっているかもしれない。
それに、こんないぬくさいプリントを提出したらあだ名がおそらく犬になる。
やっぱり先生にまたもらうしかないのか。
僕はどうしたら先生に会えるかを考えた。
連絡網を見れば先生の連絡先がわかるのかもしれないが、僕はなんだか気が進まなかった。
夏休みなのだから彼氏とデートとかしているかもしれない。
でも先生は夏休みがないと聞いたような気もする。
学校に行けばもしかして先生がいるだろうか。
僕は宿題を入れるためのトートバッグを肩に掛けて学校へ向かった。
蝉がうるさいことを除けば、それはいつもの通学路と一緒だった。
玄関を開けると、校舎の中はしんとしていた。
僕の学校は、僕の父が通っていた時と同じ建物だった。
昔はもっと賑やかだったんだよと、父は行事があるたびに校舎を懐かしそうに眺めた。
確かに昔に比べれば静かになってしまったのかもしれない。
それでも、こんなに音がしないのはなにか間違っているような気がした。
まるで悪い夢の中みたいだな、と僕は思った。
なんだか自分が間違った場所にいるように感じた。
そして、自分が存在するはずのない空間の中を僕は歩いてみたいと思った。
教室の中は、水槽のポンプ音だけが静かに響いていた。
この金魚にはいったい誰が餌をあげているのだろう。
僕は孤独な金魚を見つめた。
いつも教室を満たしている奇声が聞こえなくてさみしいのかな。
いや、そもそも金魚は音が聞こえているのだろうか。
ゴムの靴底がリノリウムを擦る音が、薄暗く真っ直ぐな廊下に吸い込まれていった。
薄暗い?
いつもと明るさは同じはずなのに、廊下はいつもより暗いような気がした。
普段の賑やかさは、見える景色まで明るくしていたのかもしれないな、と僕は思った。
僕は急に心細くなった。
認識できる範囲に人がいないことと、世界に誰もいないことと、なにが違うんだろう。
ひょっとして僕が知らないだけで、この世界にはもう誰もいなくなってしまったのかもしれない。
走り出したいような気持ちになったけれど、すくむ足をなんとか前に踏み出すのがやっとだった。
ふと、廊下の向こうに誰かがいるのが見えた。
用務員のおじさんらしき人が、こちらを見ていた。
それを見て僕はとても安心した。
よかった、まだ世界は滅びてなかった。
僕は用務員のおじさんの顔をぜんぜん覚えていなかったけれど、それでも人がいることを確認できただけでずいぶん楽になれた。
僕が会釈すると、用務員のおじさんは僕に微笑んだあとでボイラー室に入って行った。
すこし元気を取り戻した僕は、ばらばらになった宿題のことを思い出した。
そういえばこんなことをしている場合じゃなかった。
僕は気を取り直して職員室に向かった。
はやく宿題を手に入れないと僕は大人になってしまう。
廊下を歩いていると、後ろから声が聞こえた。
「おーい、どうしたー」と、先生は言った。
「君が学校に来たのを他の先生が見つけたんだけどね、職員室に来ると思ってたのにぜんぜん来なくって」
宿題を犬に食べられてしまった話をすると、先生は2分ほど笑った。
そんなに笑わなくてもいいじゃないか。
「それでなに、学校探検してたのか。どうだった?」
「誰もいないし、なんにも音しないし、怖かったです」
「だよね。違和感すごいよね」
「でも、途中で用務員のおじさん見つけて」
「あ、そっか。用務員のおじさんも来るんだね」
僕と先生が職員室に向かって歩いていると、先生が言った。
「あ、ほんとだ。用務員のおじさん来てるね」
窓の外を見ると、花壇に水を撒いているおじさんがいた。
「ちがう」と僕は言った。
「違うってなに?」
「あの人じゃない」
「あの人だよ?」
「ボイラー室に入っていったの、あの人じゃない」
「ボイラー室?」と、先生は言った。
僕はなにか間違った言葉を使ってしまったのだろうか。
先生はしばらくなにかを考えていた。
「よし、見なかったことにしよう」
「え?」
「この学校、ボイラー室なんてとっくにないのよ」
僕と先生の間に、沈黙が流れた。
「まぁいろいろあるよね!お盆だし!さ、職員室戻るか!」
明るい笑顔で先生はなぜか僕の手を握った。
先生の手はびちゃびちゃだった。