小説:三百年の彼
相談員室には今日も誰も来なかった。
とはいえ、スマホで動画を観るわけにもいかない。
いちおう学校の一室だし。
仕方なく僕は、何十回と読んだ本のページをまた開いた。
全校生徒を合わせても百人に満たないような、小さな学校だった。
だからといって相談員を置かないというわけにもいかない。
優秀な人材はたくさん仕事があるであろう大きな学校に、この規模でこの仕事量ならこいつでいいや、と僕が選ばれた、とは思いたくないけれど、僕はそれで都合が良かった。
とくにこの仕事が得意というわけでもなかったから。
そうして僕は、この相談員室の静寂に身を置いていた。
耳を澄ますと、遠くから生徒たちのはしゃぐ声が聞こえた。
「先生見てくれよこれ。ふざけてるだろ」と老人は言った。
「どれですか?」と僕は答えた。
僕は正確に言うと先生ではないのだけれど、説明するのも億劫なのでそれには触れなかった。
老人が指さした「ありがとう掲示板」に貼られた一枚の紙を見た。
そこには「三百年生きてくれ!!」と書かれていた。
「孫だよ。いつもふざけるんだ」と、老人は苦笑した。
その日は祖父母参観の日で、廊下の目につきやすいところに「ありがとう掲示板」が張り出されていた。
「しかもこれ、二百年って書いたあとにもう一本書き足されたんですね」
「え?」
「ほら、ここ違うペンですね」
「あ、ほんとだ。あいつさらにふざけたんだな」
老人はそう言って、嬉しさを隠しきれていない苦笑を浮かべた。
若者らしいおもしろい考えだな、と僕は思った。
しかし果たして、三百年生きる辛さというのは想像してみたのだろうか。
僕はふと、今どきの少年はどんなふうに考えるんだろう、と興味が湧いた。
彼と話をしてみたいと思った。
生徒たちは持ち回りで、相談員室の掃除をしに来てくれていた。
その時くらいしか僕が生徒たちと接する機会はなかった。
なかったのだけれど、僕はとくに話しかけたりすることはない。
ごくろうさま、ありがとう、それ以外の言葉を口にすることはほとんどない。
どうして学校にいるのかよくわからないおじさんに話しかけられたら困るだろうな、と思った。
生徒たちは言葉少なに掃除をしてくれた。
普段もっとぎゃーぎゃー騒ぎながら掃除をしているだろうに、と少し申し訳ない気持ちになった。
ある日の掃除当番が、三百年の彼だった。
僕はたまたま気付いたふりをして、話かけてみた。
「あれ?君って、ありがとう掲示板に三百年生きてくれって書いた人?」
「え、そうです。なんで?」
「あの日、君のおじいさんとたまたま話してさ。もしかしてそうかな、って」
「あ、そうなんですか」と彼は言った。
「おもしろいな、と思ってて、たまたま覚えてた」
「はぁ」
僕はどうにかして、途切れそうな会話を繋げようとした。
「君はあれだね、優しいね」
「いや、別に」
「長生きしてほしいって思ったんだよね?」
「んー……」
「違うの?」
「んー、よくわかんないです」
「でも三百年生きるのって、どんな感じなんだろうね」と、僕は言ってみた。
「どんな感じ?」
「三百年も生きるのは、辛いんじゃないのかな」
彼はなにかを考えていた。
僕はなにかを考えている少年を見るのが好きだ。
もちろん変な意味ではない。
静寂が流れた。まるで僕がひとりでこの部屋にいるときみたいだ。
掃除の時間が終わってしまうかもしれない。
もう少しだけ、時間がほしい。
「八十年なら、辛くないんですか?」と彼は言った。
「八十年?」
「三百年って書いたのはべつに意味はなくて」
僕は次の言葉を待ってみた。
「んーと、八十年辛い思いをしながら生きても、八十一年目でなにかを見つけてぜんぶ報われる人もいるかも」
「なるほど」
「本人がオッケーってなるなら、八十年でも三百年でもよくて」
「うん」
「だからなんか、オッケーってなるまで生きてね、って」
「うん」
「だから、逆に考えると、若いうちに死んだ人って全員が全員、不幸だって決めつけていいのかなって」
僕は少し、不穏な気配を感じた。
「生きていればきっと良いことがあるとか言う人が好きじゃなくて。なんか、その言葉の無責任さに吐きそうになる時があって」
大人としての言葉を、なにか言うべきなのだろうか。
そんなことはない、とか。
希望を持って、とか。
微塵も思っていない言葉を。
しかし、好奇心が勝った。
「それって、自分が悲しい思いをするのが嫌だから辛い思いをしながら生きろっていう、めっちゃわがままで幼稚な理由じゃないかなって」
僕はうなずいた。もしかしてこの子はTriebの話をしている?
「若くても、それが本人の正解だった可能性とか。可能性がゼロだって決めつけるの乱暴じゃないかなって」
君、死のうとしてないよね、と僕が聞こうと思ったとき、彼は言った。
「でも、少なくとも俺はまだ生きていたいです」
僕は息を吐いた。いつから呼吸をしていなかったんだっけ。
「彼女ほしいし」と彼は言った。
「モテてぇー!!!」
「それな」と僕は言った。