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ゆっくり友達を失う


「マンガは人生の教科書」だ。
自分も小さな頃からマンガを読んで育ってきた。

「NARUTO」で九尾とナルトが共闘していく様を見て、
隔たりがあっても、分かり合える仲がある。
胸を熱くして読んだ。
成長するにつれ可能性を広げ、仲間と戦っていく。
まさに「友情、努力、勝利」だ。

今、自分は友達を失っている最中だ。
学生から社会人数年、仲の良かった友人数名と。
誘いを断り、誘わなくなった。

考えるに、自分の環境が変わり、考え方が変わった。
年齢を重ねれば、そういうこともある。
加えて、ふと浮かぶのは、
いつの間にか、繋がりの理想を追っていたのではと思う。


クラスがあり協調性が必要になり、円滑な生活を送る。
部活をして輪に馴染み、役割を見つける。
コミュニティを見つけ、ポジションを探す。
関係が生まれ、感情が生まれる。
楽しさ、哀しさ、面倒さ、苛立ち、笑いを共有する。

その友達とゆっくり距離を生まれさせている。
思考の相反する、九尾という化け狐に、
「お前も友達だ」と言ったナルトの理想には近づけそうもない。


理想は時として、呪縛とも感じる。
無意識に、こうあるべきと。幸せな理想はこうと。

楽しいのはこっちだ、取り返しがつかなくなるぞ、と自分が言ってくる。
その自分はいつか、
iPhoneのカメラロールを見返して、
この時は楽しかったなあとベッドで思い返すだろう。
「あの時は飲んだなあ〜」と、友達と話すだろう。

また違う自分が、お前の本当の理想は?と問いかけてくる。
独りでも良いんじゃない?と言う。

どっちがいいかは、わからない。
おそらくもう少し寂しい道を行く。
何かわかるかも、と思い込んでみたりする。

ある人は「友達という言葉を使うから、ややこしくなる。
中学の知り合い、部活の知り合い、サークルの知り合いとすればいい。」
確かにと同意しつつ、どうしても友達という関係性を信じてしまう。

友達の可能性とはなんだろうか。
自分だけでどうにかなるものでもない。
友達と思っても、相手は友達と思わない場合だってある。
友達は儚い。
どこにでもあるが、どこにもないものなのだ。