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最果ての丘から見る風景

(地域情報誌フジマニ 2010年3月号 vol.46 掲載の編集長コラムから転載)

no mans land

「人類の食料と云えばけだし動物植物鉱物の三種をいでない。そのうち鉱物では水と食塩とだけである。」(『ビジテリアン大祭』宮沢賢治)

毎日食卓にもの言わずならぶ肉も、野菜も、魚も、豆も、かつてはそれぞれが育ち、跳ね、生きていた命であったことは間違いない。昔、ボーイスカウトで鶏を一羽解体したことがあったけど、あのときは自分の手で血を抜く感じや内臓を抜く過程がグロテスクで、できれば何も殺さず生きられないものか…とか考えてた。人が生き物の生き死にを自由にしていいって法はどこにある? 人間が地球上で一番高等だからとかいうなら、人間より高等な宇宙人が飛来したらそいつらに食べられても文句が言えないってことになるぞ! …なーんてSFなことを考えながらもナイフで鶏を捌いてるとどんどんお腹は減ってきて、「鶏」は目の前でどんどん「肉」に変わっていく。結局、目の前でジュージューと焼かれる捌いたばかりの肉の香ばしさに負けて、ものの五分で「まあ殺さず生きるなんて無理だな」と結論を出した自分。それ以来、これまで通りおれはなんでも食べるけど、でも食べてしまったものの分くらいは頑張って生きよう。とか考えるようになった。結局、やっていることは同じなのだけど、おれのなかでは確実に違いが生まれた。それは、そこに関しておれなりの答えが出せたということなのだ。迷いがなくなったということなのだ。毎分毎分が選択肢の連続の毎日。日々迷い、たゆたう人生を生きていると感じるから、その生きる道筋を明るく照らすような、新しくていいアイディアが生まれないかといつも考えている。誰にも迷惑をかけず自分の思い通りに生きるには?だとか、愛っていったい何?だとか。いつだって頭の片隅で難解なパズルを解きながら生きているような気がする。でも、人生の質を変えるほどの劇的な答えにはなかなかたどり着かなくて、複雑な思考をした割には答えはいつもシンプルで、たよりなくて、はっきりしない色味で、徐々に見えてくる輪郭もいびつなままだ。そして多くの場合、大して前にも進んじゃあいない。でも、だからといって考えることが無駄だったとは思わない。思考の逡巡の果てにたどり着いた大地が元いた場所だったとしても、それはそれでいいのだ。なぜなら俺はそこにただぼんやりと立っているわけではなくて、俺は俺の意思でそこにいるのだから。そして不思議と、たどり着いた場所からは、また新たな風景が見えてくる気がする。

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