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辺境の広告マンが見た、「100日後に死ぬワニ」を殺したもの。「100日後に死ぬワニ」が殺したもの。

あるワニが死んだ。

ありふれた交通事故といえばそれまでかもしれない。轢かれそうなヒヨコをかばって、飛び出した結果の事故。ヒロイックな行動を称賛する人もいるだろう。けれど、ワニは死んだ。

彼は一人のヒヨコを助けた。そこには大きな価値があるだろう。けれど、その過程はともあれ、ワニは死んだ。

『殺人』【homicide .名】 殺人には四種類ある。すなわち、兇悪な殺人、恕(ゆる)すべき殺人、正当と認めうる殺人、賞讃に値する殺人である。だが、どの種類に属しようと、殺される当人にとっては大きな問題ではない———かような分類は、もっぱら法律家の便宜のために設けられているのである。

米国の作家、アンブローズ・ビアスは「殺人」をそう皮肉ったが、死もまた同じく四種類に分けられるようだ。すなわち、望まれた死、受け入れられるべき死、悼まれるべき死、受け入れがたい死。だがどの種類に属しようと、死んだ当人にとっては大きな問題はない———かような分類は、もっぱら残された生者のために設けられているのである。

残された生者。
それはバイクで迎えに走り、最も早くワニの死と対面したであろうネズミでも、桜の木の下で待つモグラでも、モグラの彼女でも、愛すべきセンパイでもない。それは僕たちだ。Twitterで、Instagramで、ねとらぼで、ワニの100日間を思い思いの感情で見守ってきた僕たち=読者たちに他ならない。

「100日後に死ぬワニ」を殺したもの。

100日後に、宣告通りワニが死んだ。
その作品が公開されて一晩が開け、そこには二軸の評価が生まれている。

ひとつは、純粋な作品への評価。「感動した」「泣けた」「悲しい」「後日譚を見たい」そういう純粋な作品への感想。そこには純粋な、物語としての「100日後に死ぬワニへの評価」が愛のある言葉であふれている。

もうひとつは、怒涛のマーケティング戦略への違和感・不快感だ。
「電通絡んだステマかぁ」「電通案件だったんですね」「死んだ途端に商品豊富すぎで草」「追悼する気あんのか」等。そこには作品を純粋に楽しんでいたところに冷や水をかけられたという怒りがにじむ。

それはただ作品を冒涜された、というような単純な怒りではなく、例えばずっと欲しかった商品を手に入れてみたら粗悪品だったとか、好きだったアイドルに会ってみたら人間性が最悪だったとか、そういう落胆とか、恥とか、失望とか、そういった負の感情がないまぜになった言い表せない感情が二次的感情としての「怒り」になってインターネットの上で渦巻いている。

怒りをにじませたファンの大半の反応は、ただ悲しい顔をして立ち去るのみだが、一部の読者は露骨に嫌悪感を表して、一部では炎上が起きているようだ。今後も「100日後に死ぬワニ」が新たに商業展開されるたびに一定数の「アンチ」が粘着し、活動をするだろう。ただこれは、作者というより、仕掛け人の電通マンからすればそこは「想定の範囲内」と考えてるに違いない。

けれど、そうじゃない。

実は大多数を占める「ただ悲しい顔をして立ち去ったファン」の感情は、そこで終わっていない。

裏切られた。悲しい。結局金儲けだったのかよ。なんかもやもやする…。そういう言葉にできない「負の感情」が渦巻いた状態で、このワニ騒動からそっと離れた人たち。その人たちの中に残ったのは、「どうせまた裏切られる」という、疑心暗鬼とトラウマだ。つまりはネットで公開された作品を純粋に楽しめなくなってしまった、という負の遺産、負のインターネットミームが残されたのだ。

Loftで、秋葉原で、楽天で、これから展開される「ワニ」はそこそこ売れるだろう。どれくらい前から準備していたかはわからないけど、老若男女をカバーする見事な商品ラインナップで、書籍もそこそこ売れるだろう。

けれどこのマーケティング戦略が、富と引き換えに「100日後に死ぬワニ」という作品の文学性と、純粋さを完膚なきまでに殺したのだ。

「100日後に死ぬワニ」が殺したもの。

「いや、クリエイターだって商売だ。作品がタダで読めると思ってるの?」そういう論調もある。それは実に正しい。でも、今回の件はそういうレベルの話と同一線上じゃない。
LINEスタンプもいい。結果的に書籍化もわかる。けれど、この商品ラインナップ。書籍、いきものがかりのPV、そして映画化の準備にどれくらいの手間や時間がかかるのか? 大衆も馬鹿じゃない。それを逆算したときに、「この『100日後に死ぬワニ』そのものが、グッズや商品販売のために作られた創作物だったんじゃないの?」と勘繰られてしまうのが、ダメなんだ。

今後、同じようなネット発の作品が発表され、バズり始めたときに誰かが言い出すだろう「これも『死ぬワニ』みたいに、電通案件なんじゃね?」と。

結果、実際がどうあれその論調が作品の評価を変質させ、純粋なファンはその数を減らす。そしてそのファンもどこかで「のせられてるのかも?」と頭の片隅によぎる。そしてそのファンの動向や機微を敏感に感じて、クリエイターの創造性もまた変質する。

「100日後に死ぬワニ」は、まだみぬクリエイターのピュアな作品への公平性・中立な評価を殺し、偏見を植え付けた。

***

我が家では

「ワニは死んじゃったの? なんで死んじゃったの?」僕のスマホを覗き込んでいた息子が心配そうに言う。そうだな、と前置いて、ちょっと考えて、僕は答えた。
「ワニはね、交通事故で死んじゃったんだ。1年間に日本では2,000人が交通事故で死ぬ。コロナよりも、交通事故に気をつけなきゃダメだぞ」
「うんわかった!」

6歳の息子は、4月から小学校に通う。

我が家では、「100日後に死ぬワニ」は、100日間をかけて「交通事故に気をつけよう」を啓蒙した作品だった、と考えることにした。
この作品を見て、2,000人が助かる未来、世界線があったと思えばいい。「作品」にはメイクマネー以外に、そういう何か世界を変える力があると信じている。

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