楽しい地獄
(Facebookに書いた2014年10月20日の記事の転載です)
星野源の曲を聞いていたらいろいろ頭に湧いてきたので、この世は楽しい地獄なのだと思って世界を見回してみることにする。
「天国を探していたら地獄を見つけてしまった」なーんて愛川欽也のブルースよろしく、そんな心持ちで日々を暮らすこともあるのがこの人生。そりゃあただただ悲惨さだけを突き詰めれば、きっと自分よりも悲惨な誰かに行き着くのだろうが、悲惨さの度合いを比べたくらいであなたの地獄は地獄で無くなるものなのか? 裏を返せば、どんなに金があって、健康で、ヒマをもてあまして、楽しい日々を過ごしているひとにだって、生きている限り地獄の責め苦が待っているということだ。
地獄であるこの世には、当然ながら鬼がいる。地獄の責め苦はだいたい、その鬼によってもたらされるものだ。鬼なんて一度も見たことがないって? たぶんそれは気づいていないだけで、鬼はいつだってどこにだっている。そこにも鬼、ここにも鬼、そして俺も鬼、はたまたあなたも鬼。鬼とは見るからに鬼なのではなく、常に人の皮をかぶり、ここぞというときにだけ鬼に変わるものなのだ。誰かに対して抱く思いや感情、そして受け取る思いや感情。そのたびに鬼の角は顔を覗かせる。
わかりやすい鬼の責め苦は嘘とか、憤怒とか、嫉妬とか、敵意とかでもたらされるものだ。だけどそれだけではなく、愛とか、賞賛とか、期待とか、善意などの心が、応える方からすれば鬼の責め苦となることだってある。ただひとつだけ言えるのは、気づいたらこの世が地獄に変わってたわけじゃなく、生まれ落ちたときからこの世界は地獄なのだということだ。
日々、本当はしたくもないことをしなければいけないということ。
昼食後のまどろみに任せて、眠りたいときに眠れないということ。
会いたいときにあの人に会えないということ。
行きたい場所にいけないということ。
買いたいものが買えないということ。
夢を叶えることが誰かの夢を奪うことだったということ。
一位になったら誰かを二位に追いやってしまったということ。
昨日買ったポテトチップスの小銭で救えた命があったということ。
生きているだけで植物や動物の命を奪い続けなければならないこと。
そんな事実を見たり見なかったりしながら、人は日々、地獄の責め苦を耐え続ける。
とはいえ、地獄でなにが悪い? この世は地獄だけれど、それはそれは、楽しい地獄なのだ。地獄で生きているのだと思えば、そして地獄で生きねばならない覚悟があれば、この地獄の楽しみ方もまた見えてくるものだ。
争いもしなければならない。騙し合いも必要かもしれない。
嘘をつくこともあるし、つかれることもある。
怒りに真っ赤になることもあれば、恐怖で真っ青になることもある。
確かに何かを食わなければ生きてすらいけないし、
世界の誰かを救うために、日々のちいさな贅沢を我慢することも難しい。
出口はないかもしれない。地獄を天国にはできないのかもしれない。
けれどそれでも人は地獄を進み、生きていく。
それは鬼としてではなく、人として人生を全うするために。
痛い思いをしたときにはここぞとばかりにくしゃくしゃに顔をしかめて、
悲しいことがあったときにはしめたとばかりにワンワン泣いて、
「地獄だからこそ、この世は楽しい」
そんな風に思えるくらいになったら、人はやっと大人になるのかもしれない。
今日の日もまた、どうか楽しい地獄でありますように。
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(本日のBGM『地獄でなにが悪い』/作詞・作曲:星野源)