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「地域活性化」という便利な言葉の罠

(Facebookに書いた2014年11月9日の記事の転載です)

『「地域活性化」のためにがんばります』とか、『「地域活性化」がテーマです』とか、『「地域活性化」させよう!』など。地域のイベントや事業を立ち上げるときなどに枕詞のように使われるこの「地域活性化」だけれど、果たして「地域が活性している状態」とはどういう状態なのが、明確なビジョンを諳んじれる人はどれほどいるだろう?

藤沢市でも当然「地域活性化」は大きなテーマのひとつで、西川りゅうじん氏のような地方再生の立役者を呼んで講演をしていただくなど熱心にそのノウハウを取り入れようと努力をしている。だけど、その「地域活性化」という便利な言葉が踊りすぎて、地域が抱える課題の明確化や問題の細分化を阻んでいる部分があるのではないかと感じている。

地域を活性化させる。ということは逆にいえば地域は現在「不活性状態」だということだ。多くの場合、「地域」と対比されるのは「都会」だ。都会と比べて相対的に不活性状態だとするのはおそらく、経済の側面から見た場合だろうとは想像できるが、一般的にこの「地域活性」にはさまざまなニュアンスが含まれていて、一方向だけでは読み取れない。前後の文脈や、その言葉を使ったひとの専門分野などの行間にその意味合いが読み取れる。もしも「地域活性化」を標榜する人から仔細なビジョンが読み取れない場合は、もしかしたらただ漠然と「地域活性」という言葉を使っているにすぎないのかもしれない。といったわけで、まがりなりにも地域活性化を商売の柱にしている自分自身もまた、ここで自分なりの地域活性とはどういうことなのかを明確化してみようと思う。

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さて繰り返しになるが、まず地域活性化と言われて真っ先に思い浮かぶのが地域「経済」の活性化ということ。ここは多くの意見があるなかでも比較的同意が得られる部分で、どんな方向からのアプローチでもこの部分に関しての認識は共通認識だと考えても差し支えないだろう。都会に比べて経済が回っていないとされる地方地域。その不遇の状況を打破するための仕組みが地域活性化であるという論法だ。しかし、地域と都会が決定的に違うのはその人口密度と流動人口の総数で、必然的に地方地域はその周辺地域だけで需要を回すのでは不足が生じる。地方経済の活性化には必ず他地域、場合によっては海外といった遠方から商品やサービスが買われるような仕組みが不可欠である。これがまず地域活性化のひとつの因子、それを広義の意味を込めて『外貨獲得』とする。

外貨獲得手段でわかりやすいのは観光業。世界遺産やご当地の味覚などといった地域資源を求めて、外からその地域にお金を落としにくるというわけだ。外貨獲得でビッグマネーを手にするのは誰もが夢見る「結果」だが、儲かればいいのか?と問われればそうではないのが地域活性化というテーマの難しいところ。外貨獲得という結果を求める際に注意しなければならないのは、一私企業や外資系企業や大手企業がその立地だけを活用して収益を上げるだけではどんなに認知されて人が訪れてもその目的の半分以下も達成していないということだ。

地域活性化を達成するために、外貨獲得と表裏一体で重要なのは、地域にこだわった帰属意識の高い人間が地域の人間を雇用して実体経済を運営するということ。だから例えばある特産物を求めにくる観光客に対応するために安価な労働力である外国人労働者を雇うというような状況はあまりうまい状況ではない。なぜなら、地域活性化には継続的な(次世代への継承を視野に入れた)若手の地域経済参加への促進が含まれるからだ。これは間接的な内容から本質的な内容まで包括する話になるので、便宜上『若手の促進』という表現で表記する。ぼやけた表記にした理由は、言葉のなかには若手の雇用促進の他に、転入者人口の増加や出生率の向上といった若手世代にしかできない経済活動が内包されているからである。

『外貨獲得』と『若手の促進』が地域活性化のキーワードとしたが、この二つと密接に連携している最後の重要なキーワードは『帰属向上』だ。こちらもぼやけた表現だが、その表記の理由は以下の通り。

地域活性化とは単なる経済活動ではなく、そこに住み暮らす人間が主体となりつつ、世代をまたぐほどの長いスパンを視野に入れて継続的に行えることであるということが求められる。これを果たすためには従事する人間自身がいかに地域に対する熱意を持ち、自らインフルエンサー(発信者)となって、この取り組みを通じて波及した人々にその地域への愛着をいかに広め、高められるかということが重要になっている。なぜなら地域活性化をおこなうのは行政でも一私企業でもなく、そこに住まう人間の営みだからだ。

地域に限らず経済は良い時ばかりが続くわけではなく、けれど病めるときも健やかなるときも決して地域を捨てずに経済活動を続けることができるか。つまりは帰属意識の高い住民をどれだけ獲得できるかが地域活性化の本質的なテーマといえる。地域が儲からなくなったと考えれば大手や外資は容赦なく撤退するだろうし、そのときに大手外資頼みになっていたとしたら地域共同体は瓦解する。そのような焼き畑農業的な経済疲弊を経験したのがアメリカで(興味のある方はチャールズ・フィッシュマンの「ウォルマートに呑みこまれる世界」ほか関連書籍を参照)、我々はその轍を踏まないようにしなければならない。

そのために必要不可欠と考えている存在が現在、「マイルドヤンキー」などと呼ばれている地域への帰属意識の高い中間層だ。この呼称が個人的には大嫌いだし、地脈血脈といった地理的アドバンテージを活かしつつ、地域の伝統文化を担いながら経済を運営をするこの層のことを口の悪い経済学者は何様のつもりか『プア充』などと揶揄するが、自分も含めたこの「地域を愛する青年たち」こそが、地域活性化を担うことのできる唯一無二の存在であると僕は思っている。

総論としてまとめると、地域活性化は単なる町興しの方策にとどまらず、そのエリアが今後50年以上にわたって担う経済的な役割を決める重要な舵取りであり、一度決められたその方針は街の在り方や、そこに住まう人々のアイデンティティや、他のエリアとの共存共栄の道筋や、今後の流入人口の増減などといった、これからの「街の生き死に」を決める選択肢であるといっても過言ではないと思うのだ。

基本的に金融マーケットを軸にした「中央集権型の経済構造」をなしている資本主義経済でこの社会が成り立っていることを考えれば、マーケットとして魅力の薄い地方経済圏が自然発生的に地域活性化することはほとんど望めない。地域活性化を達成するためには流血を厭わない(リスクを承知で商売を興す)、志を持った仕掛け人が必要なのだ。そしてその仕掛け人は地元出身など帰属意識が高い人間でなければならない。地域を知り尽くし、地域を離れては生きられないという覚悟があるならば、地域特性や地域住民の帰属意識を高めるツボを知るなど、その地域に長けた専門家として存分に采配をふるうことができる。彼らが地域特性を正しく知り、タウンプロデュースの勘所を学んだ上で、バランス感覚よく地域活性化事業に従事するのならば、その地域はきっと再生を始めるはずだ。

そして地域活性化こそが、中央集権から地方分権に移りゆくこの時代の大きな礎として、次世代の日本を変える牽引力になると信じている。

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