あきらめの悪さという名の才
eight years ago.
昔の日記が出てきたので、読む。高校三年の頃の俺は自分が子供であることがとにかく不満で、未熟者扱いされることが本当にイヤだった。だからどうにかして一人前に...一秒でも早く社会に出て自立する、そんなことをずっと考えていたような気がする。でも、それでいて十人並みの生活じゃ嫌だ...っていうからタチが悪い。自分はもっと他人とは違う道を行くんだって何の根拠もなく考えていた。いま思えば勉強もスポーツも、なにひとつモノになっちゃいなかったのにね。それから俺は大学進学はせず、一年間をフリーターとして過ごす。その裏側には、俺には隠れた才能があって、その才能を生かす場所にさえいければ俺はきっと猛スピードで人生の階段を駆け上がるはず...そんな、なに一つ根拠のない自己過信があった。遊び、仕事。一年なんて矢のような早さで過ぎる。「やりたいことを見つける」という免罪符の下にアルバイトと遊びだけで過ぎた一年。果たして過ぎた一年を振り返り、はたと自分を見つめ直す。そこには、何一つ才能のないただの凡人が、マヌケ面をして立っていた。才能ってのは生まれつきだ。サラブレッドの子がサラブレッドになるように「血は水よりも濃い」と言ったワイアット・アープの言葉を借りるまでもなく、これは確然たる事実としてそこにある。血脈や、生まれや、育ち。つまりは、生まれ持たなかったものをどんなに求めてもそれはもうどうすることもできないということ。人間は、権利は平等かもしれないけど能力は平等なんかじゃない。そもそも、人が平等だなんてのは「コウノトリが赤ん坊を連れてくる」くらいにバカらしい嘘っぱちだ。「生まれ持たなかったもの」は俺の手札にないのだ。その俺が、才無き身がこの世界を生きるには? ひとつは、自分の身の程をわきまえこじんまりと生きるという方法。でも、どうにかしてあの綺羅星に手を伸ばしたかったら?あの高みにあるブドウをあきらめきれなかったら? それは、努力するしかない。努力をしたからといって、報われるとは限らない。けれど、報われた人間はみな努力をした人間なのだ。努力。それはつまり、運命に逆らおうとする行為なのかも知れない。自分にワイルドカードがないと気付いた日、日記のなかの俺は笑っちまうくらいに迷走をしていた。いったいどこを目指しているのかも、何をしていいのかもわからないまま、無様に、けれどあきらめ悪く、懸命にもがいていた。まるで、今みたいに。
【地域情報誌フジマニvol.43(2009年8月)掲載の編集長コラムからの転載です】
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