![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/152936032/rectangle_large_type_2_16285b9f557430c73da67541d7cc7ffc.jpeg?width=1200)
行為主体という「表現」を語る(つやちゃん『スピード・バイブス・パンチライン ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』)
「勝つ」という言葉。
競争という場は勝ち・負けという二項対立を生じさせて僕たちに価値基準を提供する。それは非常に単純化されたカテゴリーだ。言い換えれば、勝ち負けは分かりやすい。勝者は他の人よりも上の存在として価値を認められる。例えばこれが「みんな等しく一位」と言われたらどうだろうか。その多様性の価値は美しいかもしれないが、存在としてのあり方はひどく形容しがたくなってしまう。だから勝ち負けは分かりやすい存在の価値を与えてくれる。スポーツが分かりやすい例だろう。
さて、そんなスポーツ的な要素のある勝負の要素が「言葉」というジャンルで近年強く入ってきているものが漫才とラップだ。M-1をはじめとした芸人のグランプリを決める大会、またUMBや戦極といったMCバトルをはじめ、自身の楽曲=存在をどう(売り)出すかを考えるラップ。一見重ならないこの二つを「勝つためのしゃべり」というダイナミックな枠組みで論じたのが、つやちゃんの『スピード・バイブス・パンチライン』(以下『SVP』)になる。
第一部ではそれぞれの章にタイトルに加え、二組の漫才師とラッパーの名前を掲載している。「キングコング/SEEDA」、「和牛/OZROSAURUS」、「スリムクラブ/Gotch」、「ヨネダ2000/ゆるふわギャング」、「ミルクボーイ/NORIKIYO」、「ウエストランド/ちゃんみな」、「ハイツ友の会/dodo」、「ナイツ/あるぱちかぶと」、「タイムマシーン3号/ZORN」、「霜降り明星/Watson」、「ジャルジャル/Tohji」といった形だ。正直、両方とも多少知っている組み合わせだと、その二組が同じ俎上で論じられているとだけ聞くと、あまりのちぐはぐさに少し笑ってしまうかもしれない。それ自体がまさにギャグのように思えてくる。
しかし本書の内容を見るとこの二組を並べていることが必然であるかのように見えてくる。例えば和牛とSEEDAで語られるのは、共通している「音と間」の関係性だ。リズムを構成する上で欠かせない「間」をこの二組は、漫才や楽曲のコンテクストを踏まえて使い、表現性の深化をさせているというのだ。
他にもリズムや音のスピード、反復、ズラし、歌詞の中に書かれるキャラ性、日常性、意味など……。漫才とラップという異質な組み合わせを普遍的な表現論の枠組みで、本書は軽やかに論じていく。彼らが「勝ち」を志向する中で生み出していったスキルの内実を本書では知ることが出来る。各プラットフォームなどで動画や音楽を割と容易にアクセスできる現在は、それを見たり聞いたりしながら内容を確認することが出来ることも本書を読む上での楽しさとしてある。(僕自身もAmazonPrimeビデオで歴代M-1の動画を見ながら本書を通読した。)
勝ち負けは分かりやすさを伴うがゆえに、戦略性を組みやすい。そしてそのためにつけてきた漫才師やラッパーのスキルは独特の美学がある。しかし、あとがきでつやちゃんが危惧しているように、現代にはびこるしゃべりゲームの過剰性(SNSなどのどうしようもないほどの言葉のやりとり)によって起こっている疲弊は看過することが出来ない。すでに社会に蔓延している「論破芸」などはまさにしゃべりの「勝ち負け」をつけるためのものだろう。そこに嫌気がさしている人たちも多く、失語的になっている人もいるだろう。しかし、それでも漫才やラップはそんな日常の「語ること」とは別の「表現性」を帯びている。だからこそ日常の「語ること」による勝敗のゲームとは違うゲームの中で生み出された光り輝くものだと言えるだろう。
勝ち負けという単純なゲームを通して独自の深遠な表現へ。漫才やラップは日常の語りとは違う次元だということは忘れてはならない。
さて、つやちゃんの本は他にも『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原理』などがあるが、彼の本の魅力は既存の批評の枠組みに囚われない形にある。先の異質な二組を同時に扱うという手法も珍しい。(文芸批評では作家論や作品論などの個別単体のものを扱う文脈が近年では強い傾向がある。そもそも、漫才師とラッパーなどといった行為主体を伴ったものを批評するっていうのは珍しいかもしれない。)また『フィメールラッパー批評』の方も多くのディスクガイドがついている本であった。また『SVP』は「批評」的な本ではあまり見ない、インタビューも掲載している。中身のレイアウトも含め雑誌に近いものを感じる。
そもそも音楽・ラップや漫才の魅力は「言葉」だけではない。身体的なビジュアル=ファッション、立ち振る舞い、声=リズム、内容。さまざまなものが複合的に絡み合って出来ている総合表現だと言ってよい。本書の第二部でもファッションとラッパーの関係を扱っていたが、ラッパーの表現とファッションは切っても切り離せないものだということが、本書でも非常によく知ることができた。
そんな行為主体と彼ら/彼女らを包摂する外部環境を含めた表現がある中で、それらを語る批評の形式も言葉だけに固執する必要がどこにあるだろうか。批評を行ってきた人間として見過ごせない魅力が随所にある本だった。
いいなと思ったら応援しよう!
![藤井 義允](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/72237280/profile_f0fa15ec068108be1079b789db722cb8.png?width=600&crop=1:1,smart)