ETV特集 個人的な大江健三郎
大江健三郎の小説は読んでいたつもりだったけど、なーんもわかってなかったなぁと思わせられた。若者の性と残忍さをえがいた初期作品から、原爆被害者や障がいをもつ息子を題材にした小説へ……という流れを、それぞれの作品に感動した人の証言をもとにえがきだす。
ぼくは高校時代、初期作品の「飼育」「死者の奢り」をよんだとき、太宰の「人間失格」と同様、じめじめと暗くて救いがないと思った。それらの作品を「乃木坂」の斎藤飛鳥は「悩んでいる姿がきたないけどきれい。きれいごとじゃ生きていけないって人には言えなかったけど、この感情はまちがいじゃないんだ、と思わせてくれた」と評する。そっかぁ、そういう読み方かぁ。
「芽むしり仔撃ち」は読んだことすら忘れていた。僻地に孤立させられた若者たちがユートピアづくりをめざすが、村の大人たちがもどってきて崩壊させられる。救いのない物語だけど、絶望状況で若者が立ちあがる姿が印象的だった。シンガーソングライターのスガシカオは「巨大なエネルギーが体をとおり、全部もっていかれちゃった」とかたる。ぼくは大学時代によんだが、そこまでの衝撃はかんじなかった。感性がにぶかったのだろう。
障がいがある長男が誕生し、29歳で「個人的な体験」(1964)を書く。1965年には「ヒロシマ・ノート」を発表する。
ぼくは「ヒロシマ・ノート」は印象にのこらなかった。被爆者の生の証言を聞いていたから、間接的な彼の作品がひびかなかったのかもしれない。でも「この世界の片隅に」の、こうの史代はこの作品によって外部の人間がヒロシマについてかたる意味があると確信したという。
「自閉症スペクトラム」の子をもつ男性は、「洪水は我が魂に及び」をとりあげた。知的障害をもつ子の行動は不条理としか思えない。大江もそうした不条理にたいして、試行錯誤してきた。その試行錯誤は「祈り」であると大江は表現する。「祈り」は悟りではなく試行錯誤そのものなのだ。そこに救いがある。
人生は闇につつまれていても、どこかで再生する可能性がある。根源的な暴力性をもつ自分自身をいやし、回復することができる……。大江の最後の作品はそんなメッセージをつたえているという。
ここまで書いて気づいた。ぼくが好きな、「万延元年のフットボール」などの作品はとりあげられていないのだ。それ以外の作品をよみとおせ、というメッセージだとうけとった。
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