「餅つかぬ里」の正月料理「ぼうり」
「餅つかぬ里」があると聞きいた。旧大塔(おおとう)村(田辺市)の中心部から富田川の支谷を東へ3キロさかのぼった、小川という20軒ほどの集落だ。
大塔宮さんへの罪
宮越明治さん(1930年生まれ)が幼いころは、正月に餅を食べず、サトイモの親芋を2日間煮こんで醬油と塩で味をつけた「ぼうり」が膳にならんだ。学校では「小川は餅もつけんくらい貧乏や」とはやされた。
「小川だけ餅をつかんの、なんでや?」と父にたずねた。
「大塔宮(おおとうのみや)さんに罪があるんや。餅をついたら罪になる」
それだけ言って口をつぐんだ。理由がわかったのは小学校高学年になってからだ。
戦時中、小川地区は子どもの竹槍(たけやり)訓練や奉仕活動に力をいれた。軍馬のための草をひとり何貫とノルマをきめて刈り、道端の馬糞をあつめて堆肥(たいひ)をつくった。「優良少年団」と朝日新聞に全国表彰された。
あるとき区長が小学生をあつめ「土曜日は神社の掃除をせい」と命じた。神社は2キロもはなれている。気がのらない宮越さんらに区長は説いた。
「大塔宮さんに餅をさしあげなんだ罪がある。わしらこそ奉仕の精神をもたなんだら戦争に勝てん」
谷間のこの村には、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良(もりよし)親王の一行が鎌倉幕府に追われ、山伏姿で落ちのびてきたとつたわる。一行は農家の軒先にあった粟餅(あわもち)を請うたが村人はことわった。後に大塔宮の一行だったと知って村人は深く悔い、その後は正月に餅をつくのをやめてしまった。
家にかえって区長にきいた話をつたえると父は、1935年に大塔宮の六百年忌がいとなまれた京都・大覚寺に粟餅600個を奉納して謝罪したと説明し、「今は餅ついてもかまんけど、戦争しとるさか、守ってるんや」といった。
はじめて正月に餅をたべたのは敗戦2年後だった。
大事件を予言した滝修行者
宮越さんは、山主から請け負って山林を管理する「山番」だった。近隣の山の隅々まであるき、山にどれだけの木があるか材積をみつもり、山の単価をきめる。炭焼きの窯もつくった。「生き字引」とよばれていた。
山では、不思議なであいもあった。
1996年ごろ、丸坊主の男が林道にテントをはっていた。全国の滝で修行しているという。斜面を指さして「その上で地蔵さんがくるしんどる。木を切ってくれ」という。宮越さんは山主に伐採するよう連絡した。すると男は「地蔵がみつかる。あなたは人助けをする。大事件がおきる」と予言した。まもなく地蔵が発見され、宮越さんは山でまよっていた若い女性をたすけた。そして、知事選をめぐって隣町の中辺路町(現在は田辺市)の助役や収入役が逮捕された。
あやしい男の言葉をなぜ真にうけたのだろう。
「大塔宮さんのことがあったからかも。あなたもいろいろな人にあうやろが、であいは大事にしなさいよ」
「餅つかぬ里」の伝説は、一期一会の意味をおしえる説話だったのかもしれない。
焼畑民の信仰の痕跡
上記は2015年に集落の特異な文化にひかれて取材した記事だが、「イモと日本人」(坪井洋文)によると、正月の餅をタブーにする家族・同族・村落は、山形県から長崎県まで約100件もあるという。正月にイモを供えたり、逆に、正月だけイモを人目につかぬところにしまいこんだり、いっさい芋を栽培しなかったり……といった例もある。
正月の餅をタブーにする理由として、小川のように、先祖が高僧や貴人に餅をあたえなかった、という話のほか、餅を食べようとしたら血の色に染まるとか、平家の落人が、再興を帰するまでの禁忌として源氏の「白」である餅をつかないようにしたといったものもある。
赤い色は、焼畑耕作にともなう火を象徴している。餅=白色=水=水田稲作農民とはことなる、雑穀・根菜食品=赤色=火=畑作(焼畑)の民の流れがあったことをしめすのだという。
ボウリの作り方
2022年秋、田辺市内の道の駅で里芋の親芋を入手できたから、ネットのレシピを参考にしてつくってみることにした。2日間かけるのは、巨大な芋の中心まで味をしみさせるためだ。宮越さんからは「塩と醤油」ときいたが、砂糖とみりんもくわえた。