紀伊路⑤国の境 ムラの境(山中渓〜布施屋)
仇討ちも事故も押し付け合い
5月はじめ、JR紀勢線の山中渓駅におりると、燃えるような新緑の山峡にウグイスの声が響いていた。峠道を走るランナーが5人おりたが、コロナのせいか観光客の姿はない。
駅前から峠に向かう県道を歩くと、ロードレーサーに次々に追い抜かれる。山中関所跡は石碑が倒れている。南北朝時代から関所だったが、江戸時代に廃止されたという。
並行する阪和自動車道やJR紀勢線は何度も往復した。県境の山は数分で通過していた。自分の足で歩くと、昔の国を分ける峠は大きく立ちはだかる。
府県を隔てる小さな川は「日本最後の仇討ち場」だった。
土佐藩士の父親を殺された息子は、和歌山の加太に潜んでいた仇敵を発見し、紀州藩に仇討ちを申し出た。紀州藩は「(仇敵を)国ばらいとし境橋より追放するので、仇討ちをしたければ境橋付近、和泉側にてすべし」と伝えた。国境の川を和泉側に越えてきた父の敵をみごと討ち果たした。明治維新の直前、1863(文久3)年のことだった。これは公権力が認めた最後の仇討ちで、明治政府は1873(明治6)年には仇討ち禁止令を布告した。だが非合法では、明治13(1880)年に「臼井六郎仇討ち事件」が起きている。
「藩の外でやれ」という紀州藩の事なかれ主義に笑ってしまった。
ぼくは新聞記者時代、事件事故の取材が苦手で、県境付近で事故があると「むこうであってくれ」と祈った。仲のよい警察官も「境界で人が死んでたら、県境のむこうに押し出したくなる」と言っていた。1985年の日航ジャンボ機墜落事故で、墜落地点が群馬県側と判明したとき「もらい事故だ!」と群馬の記者たちが嘆いたとも聞いた。犠牲者のことを思うと不謹慎ではあるのだけど。
滝畑という集落の手前の線路沿いに、和歌山で最初の中山王子跡がある。提灯や記念スタンプが設けられ、所在をさがすのも難しい大阪府の王子とは扱いがだいぶ異なる。
集落に入ると、黒焦げの平地に炭化した柱や板材が転がり、すすけたにおいが漂っている。10日ほど前に2軒全焼の火事があったという。電柱に「その日に郵便ポストに投函した方は連絡を」という張り紙がある。郵便ポストも焼けたのだ。でも土蔵だけは表面がすすけながらも残っている。蔵は防火建築なのだとよくわかる。
仏教以前の信仰の名残
ちょっと歩くと塞之神(道祖神)がある。ムラの出口だ。
道祖神や塞之神は熊野古道のあちこちで見てきた。男根のような石柱や丸石もあった。
五来重によると、かつて道祖神には陽石、陰石が添えられることが多かった。男根と女根という石の造形は祖先のシンボルであり、仏教以前の先祖崇拝の名残だった。仏像の影響で神像がつくられ、石棒の道祖神が仏教化すると地蔵菩薩立像になったという。
男根と女根の造形は、しだいに性的にとられるようになり、明治維新の「淫祠邪教の禁」によって石棒の多くが撤去され、文字碑や石像だけが残ったという。
明治の日本版文化大革命は、廃仏毀釈で仏教を排除するだけではなく、仏教以前からの伝統宗教をも大きく変容させるものだった。
スポーツの神
紀ノ川とその周囲に開けた和歌山平野に向かって、急坂を一気に下る。
里まで下りきった集落に山口王子がある。提灯が飾られている。江戸時代は周囲32間の王子権現神社だったが合祀された。
そういえば「小栗街道」という呼称を目にしなくなった。旧宿場町の信達宿(泉南市)や山中渓では「紀州街道」だった。和歌山に入ると「熊野古道」になり「王子」の案内標識が充実した。和歌山県は熊野古道を観光の目玉にしているからだ。
農村集落の川辺王子跡は、石造りの鳥居と小さなお堂がある。水田わきに看板があるだけの中村王子跡を経て、力侍(りきし)神社を参った。ここもまた川辺王子跡だという。田んぼのなかを並木道の参道が数百メートルもつづく立派な神社だ。
祭神の天手力男命(あめのたぢからお)は、アマテラスが岩戸に隠れた際、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた瞬間に引きずり出し、世界に光を取りもどした。このため筋力の神、スポーツの神として信仰されているという。彼が蹴り上げた岩戸が長野県まで吹っ飛び、戸隠山になったとされている。
力侍神社と八王子神社のふたつの社殿の屋根は、よい具合に苔むしている。
中央構造線のエネルギー
30分ほどで紀ノ川の堤防に出て川辺大橋を渡る。越えてきたばかりの和泉山脈沿いに中央構造線が東西に走り,この断層の南側の沈んだ部分に、紀ノ川や和泉山脈がもたらした土砂が堆積して和歌山平野がつくられた。大きな川には大地のエネルギーを感じる。
橋を渡ってJR和歌山線の線路を渡った田んぼに吐前(とざき)王子跡があった。江戸時代は森に覆われた王子権現だったという。
寺やお堂が点在する集落をたどるとまもなく、無人の布施屋駅に着いた。(17.5キロ)
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