
俳句も石油も出雲神話も……越後の北前船寄港地巡り①
北陸3県の北前船ゆかりの地は2014年に自転車で巡ったことがある。今回はそのつづき。新潟県の北前船の寄港地を車で西から訪ねてみた。
直江津、室町時代から重要港
かつての直江津(上越市)は「今町湊」と呼ばれ、室町時代の「廻船式目」では、全国の主要港「三線七湊」のひとつにあげられた。北前船が活躍した江戸時代には、高田藩の外港として、船で運ばれた来た産品を城下町の高田や信濃へ運び出す拠点となった。
早朝の街を歩くと、あちこちに神社や寺がある。
金刀比羅神社の石灯籠は尾道(広島県)の石工がつくり、八坂神社の土台は福井県の笏谷石で、鳥居は尾道(広島県)、狛犬は筑前(福岡県)のものだ。琴平神社の石灯籠も尾道の石工がつくった。
「ライオン像のある館」は1895(明治28)年に発足した旧直江津銀行だ。1915(大正4)年に解散されたが、海運業者の社屋として使用されたという。
海を望む段丘上のえびす稲荷神社の碑には、三味の音が昼間から聞こえたと記されている。海岸段丘を上り下りする路地はそんな繁栄の名残を感じさせる。
能登半島から村ごと移住
日野宮神社の周辺は「塩浜」という地名だった。
能登島の小浦村(石川県七尾市)から江戸時代初期の1614年ごろに一村あげて移住し、塩作りや漁業を営んできた。
移住の理由は、①上杉謙信に味方して追われた②前田利家が石動山を焼き討ちにしたときに石動山側だった村人が越後に逃げた③塩作りの技術をもつ村人が上杉家に招かれた④重い租税から逃げた………といった説がある。
能登では深見村(輪島市門前町)も、戦国末期の16世紀末に前田家の過酷な年貢に耐えかねて全村が越後に逃げ、十数年後に半数がもどって村を再興している。それほど能登半島は貧しく、加賀・前田家の支配が苛烈だったのだろう。
風景を大ざっぱにする原発マネー
東へ車を走らせて柏崎市に入ると、ビーチの観光施設もトイレも大きく豪華で殺風景になる。柏崎刈羽原発のおかげでカネが余っているからだ。ビーチの展望台から発電所を遠望できる。
アトムミュージアムは、広大な駐車場を備え、複数の常勤職員がいるが、展示は貧弱で5分で見終わった。
国道沿いに延々とつづく厳重な有刺鉄線をすぎると、落ち着いた漁村の風景がもどってくる。能登半島のような下見板張りの家々があらわれる。
芭蕉が佐渡をうたった出雲崎
午前10時前、北前船の寄港地だったという出雲崎に着いた。
島根県の出雲と関係があるのだろうか……と石井(いわい)神社を参ると、狛犬が伏せをしている。出雲の狛犬の特徴だ。祭神は大国主命という。
出雲の大国主命が佐渡を攻める際、石の井戸の水をまくと12株の巨樹が生えた。その木で船を造って佐渡に渡ったと伝えられている。
出雲で出土した勾玉は糸魚川のヒスイでつくられており、はるか昔から出雲と越後のつながりがあったことはまちがいない。
目の前に臥所のような佐渡島が横たわる。
荒海や佐渡によこたふ天河
芭蕉はこの句をこの町で考えたという。佐渡の存在感を、天の川に託して17文字で表現してしまう。芭蕉は天才だ。
妻入りの街並み
出雲崎の市街をつらぬく北国街道は「妻入り」の家が3.6キロもつづいている。妻入りにしたのは幅が狭く奥が深い屋敷にするためだ。最盛期の出雲崎は人口2〜3万人を数え、越後でもっとも人口密度が高かったという。
「妻入り会館」は最近つくられたが、隣の屋敷は昔のまま。「会館」とつくりは似ているが高さが低い。2階は女性の頭がようやくつかない程度の高さだそうだ。
出雲崎は、佐渡の金銀の水揚げ港だから天領だった。北国街道は、出雲崎から江戸へ金を運ぶ道として利用された。
石油産業発祥の地
道の駅の隣に「石油記念館」がある。
尼瀬と呼ばれるこの地区では古代から海面に石油が浮遊していた。1600年ごろから手掘りで採掘するようになり、深さ200メートルの井戸もあった。明治初期にランプが輸入されて需要が高まり、機械掘りがはじまった。世界初の海底油田だった。出雲崎は日本石油(ENEOS)発祥の地となった。 1980年代まで掘削していたという。
照明器具の明るさの比較がおもしろい。ロウソクは15ルーメン、奈良時代から使われたが高価だった。一般庶民が使う菜種油は10ルーメン。庶民は魚や植物の油を使った。
石油ランプは60ルーメン。白熱灯は810ルーメン(60ワット)。石油や電気の偉大さがよくわかる。
ここは良寛の故郷で、山の上には資料館がある。
見どころが多く丸一日散策を楽しめる町だった。
「北の鎌倉」寺の鐘楼はオルゴール塔
10キロ北の寺泊(長岡市)も北前船の寄港地だ。聖徳寺(しょうとくじ)という寺の庭園は、北前船で運ばれた奈良の石が使われている。
山の中腹にある白山媛神社には50枚以上の船絵馬がある。
日本海と佐渡をながめながら、神社から等高線上に山の中腹をたどると、次々に寺や神社があらわれる。そのうちのひとつ生福寺は戦時中に鐘を供出させられ、戦後は鐘楼ではなくオルゴール塔を建てた。鐘音のかわりに「浜辺の歌」が流れる。
寺社が山に沿ってならぶため、寺泊は「北の鎌倉」「日本海の鎌倉」とも呼ばれている。
沖合に横たわる佐渡の赤泊地区との間には佐渡汽船による「両泊(りょうとまり)航路」があったが、2018年に運休となり、翌年廃止されてしまった。
この日の宿泊地の新潟市内に向かう途中、佐渡の左に沈む夕陽をながめた。真っ赤に染まる海と島影。その向こうには西方浄土が広がっているように思える。
天の川に包まれながら、芭蕉も生死を超越した世界を感じていたのではなかろうか。