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葬られた王朝-古代出雲の謎を解く <梅原猛>
古事記に描かれた出雲王国は現実にはなかった--筆者はかつてそう書いた。1984年以降、荒神谷遺跡などで大量の銅鐸が見つかり、出雲に巨大な権力があったことが明らかになった。筆者は以前の自説を、神話はすべてフィクションと考える津田左右吉に影響された誤りと認め、懺悔をこめて改めて出雲王国の姿を解き明かした。津田の影響下にある日本の歴史家はだれも日向神話に目を向けない時代、これに関心を示したのがレヴィストロースだったという。
古事記を綿密に検討し、いわれの地を歩くと、神話の世界が現実にあったかのように生き生きと立ち上がる。過去を知るには豊かな想像力がなければならない。巧みな歴史家は小説家以上の想像力があり、その文章を読む人の心を動かすことができる。
高天原から追放されたスサノオが韓の国におりて、そこから出雲に渡ったという記述は、渡来人であることを示す。スサノオ王朝は、2代つづけて土地の豪族(国つ神)であるオオヤマツミ家と結婚することで出雲における地位を強固にした。銅鐸は、中国の馬車につけていた馬鈴で、朝鮮半島ではそれが貴人の証しだった。スサノオがつくった出雲王国でも、銅鐸が象徴となった。
八岐大蛇退治の伝説については、島根では暴れ川の斐伊川の治水工事を示すという説を聞いたが、筆者は、強力な翡翠産出国「越の国」(北陸)の攻撃を撃退したことだと考える。
その後、スサノオがつくった王国は巨大化し、越の国はもちろん近畿圏まで支配する王国になる。国引き伝説はそうした勢力拡大をあらわす。その立役者が大国主命だった。銅鐸は出雲で生まれ、王国の拡大とともに中国、四国、近畿でつくられるようになった。下鴨神社では重要神事で銅鐸を鳴らす。奈良や京都に出雲系の神社が残っているのも王国の名残りだという。
オオクニヌシとその参謀のスクナヒコナの最大の功績は、医療をもたらしたことだ。スクナヒコナは朝鮮から先進医療技術をもってきた。そうした医療に関する施設のひとつがスクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという玉造温泉だった。粟や小豆、麦、大豆などの農業をもたらしたのも出雲系の神々だということも古事記は示唆している。
だが、大きくなりすぎた帝国は運営が困難になり崩壊する。そして、稲作をもたらした天孫族に敗北し「国譲り」となり、オオクニヌシは根の国におりることになる。
ただ、その後も出雲王国は一定の自治を許される。大宝律令によって、先祖代々諸国をおさめていた国造は権力者の立場を追われ、中央政府から任命される国守に実権は移ったが、出雲だけは国守がおかれず、出雲国造は紀伊国造とともに政治的支配権を維持しつづけた。
筆者は、古事記や日本書紀をつくったのは、律令国家を完成させた藤原不比等だと断じる。
不比等が立役者となってつくった律令国家は、唐の律令とはまったくちがった。唐の律令は、中書省、門下省、尚書省の3省にわかれ、それぞれ独立して皇帝に直属するが、大宝律令では太政官一本にしぼられている。権力は太政官をにぎる高級官僚、すなわち藤原氏に集中する。いわば象徴天皇制だった。これは藤原家の権力を意味した。
竹取物語は政治的な風刺小説ではないかと筆者は考える。大伴氏も物部氏も愚かさによって滅ぶ。うそを本当に見せかける天才的な才能をもち、金持ちでけちで残忍な男は不比等なのだという。藤原氏は400年間、日本の政治をほぼ独占した。徳川も及ばない超長期政権だった。
天孫降臨では、実質的な命令者はアマテラスよりタカミムスビだった。タカミムスビは外祖父として聖武帝を皇位につかせた不比等に似ている。天孫降臨の計画を立てたオモイカネもまさに不比等だ。不比等は律令国家を完成させるとともに、藤原氏の子孫の末永い繁栄をはかる策略を記紀のなかにも忍び込ませた。
記紀で活躍する神々はすべて不比等を思わせるか、春日四神として藤原氏の氏神になった神だった。古事記は「稗田阿礼が誦んだ旧辞」を書き留めたとされるが、稗田阿礼とは藤原不比等ではないか、とも筆者は推測する。
不比等こそが、大和王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲に封じ込めた張本人だと結論づける。出雲大社が、天皇の祖先神アマテラスの伊勢神宮よりはるかに壮大なのは、「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を示したものだという。