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昭和世代の生きざまの物差しになる土門拳の作品群 土門拳記念館(酒田市)

13万点の写真を収蔵

 鶴岡を後にして、鳥海山をながめながら北上する。海辺から長い裾野を形づくってそそりたつ山は典型的な神奈備だ。
 30分ほどでたどりついた最上川の手前の公園の一角に、コンクリート打ちっぱなしの安藤忠雄建築を思わせる「土門拳記念館」(山形県酒田市)はあった。
 1983年に開館し、土門拳の作品約13万5千点を所蔵し、ライフワークだった「古寺巡礼」「室生寺」「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「風貌」などを展示している。一度はたずねてみたかった。
 土門拳は1909年に酒田で生まれたが6歳で上京した。
 1933年、24歳で宮内写真場に入門して写真をはじめ、2年後に「報道写真家」をめざすため「朝逃げ」して「日本工房」にうつる。

 当時、伊豆半島には上半身裸で海にもぐる海女がいた。能登半島では昭和30年代まで裸でもぐっていたが、伊豆では戦前までだったのだろう。浅草線の地下鉄の駅や映画館はにぎわい、祭りの夜店で買い物をする浴衣の女性の襟足の色っぽさ……。

 1937年の傘をまわす子の顔がぼくの幼いころにそっくりだ。服装はちがうけど、ぼくの顔は昭和前期の流れをくんでいることがよくわかる。

 1939年からつとめた「国際文化振興会」では「国策」の報道写真を撮る。
 赤十字看護婦の出征や、海兵団のひきしまった若者たちの訓練、全裸の若者が一列にならんで医師と向き合う入営前の身体検査、千人針をつくる女性、「南京陥落」「皇軍大勝」といった街の風景……。
 「国策」にしたがう写真ばかりなのだけど、土門が撮ると、どれも生命力にあふれ、今見てもプロパガンダ臭をかんじない。

戦後の世相とヒトの生命力を表現

 1945年8月15日に終戦になると、その日のうちに退職してフリーランスになった。1947年には5歳の次女を水難事故でなくした。
「筑豊のこどもたち」の撮影では、学校の昼休みの撮影の際、「弁当をもっていない子の顔はうつさないでほしい」と校長に言われた。弁当のない子は、ほかの子がむしゃむしゃ食べるなかで絵本を凝視している。弁当を食べる子が楽しそうにさわいでもいっさい反応しない。子どもの表情が切なすぎる。
 筑豊取材の無理がたたって、1960年に脳出血で車いす生活になり、ライカを手にしてうごきまわることができなくなった。大型カメラでじっくり仏像を撮るようになった。それが「古寺巡礼」などに結実した。
 著名人の「風貌」のポートレートも。毛穴がみえるほどすみずみまで深くピントをあわす。三島由紀夫、死ぬ直前の斎藤茂吉、鈴木大拙、川端康成、牧野富太郎、森繁久弥、若き日の大江健三郎もいる。

いつのまにか消えた「昭和」

 チャンバラ遊びやベーゴマ、紙芝居、ハーモニカやアコーディオンを弾く傷痍軍人……。ぼくらの子どものころはたしかに存在したのに、知らぬまに消えた。
 ぼくは子どものころ、戦争なんてはるか昔のことだと思っていたけど、遊びも風景も「戦争」や「戦前」とつながっていたのだ。
 土門の写真を一覧することで、戦後という時代を俯瞰し、ぼく自身が、戦争とつながる時代に生きてきたことを認識させられる。
 土門拳は1990年に80歳で死去した。
 福島県須賀川市出身の円谷英二は戦争体験をもとにゴジラやウルトラマンを造形し、「戦後の終わりのはじまり」である1970年に没した。土門は、戦前からつらなる遊びや炭鉱の貧困などを活写し、それらが消滅した「戦後の終わり」とともに旅立った。


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