紀伊路③仁徳陵から貝塚へ
大社になれなかった氷川神社
大仙陵古墳からは、工場と住宅が農村を蚕食して形成されたちょっと殺風景な町をたどる。「日本最古の戎宮」石津神社を経て門前町風の街並みに入ると大鳥大社だ。寺社が中心にある町はどこも独得の落ち着きがある。
「大社」という名は、もとは出雲大社(島根県)だけに使われていたが、19世紀末になって、春日大社(奈良県)や諏訪大社(長野県)なども大社と呼ばれるようになった。戦前は、全国に多数ある同名の神社をとりまとめる役割をもつ神社を指し、現在は全国に24あるという。
大鳥大社は、古事記の英雄ヤマトタケルが死んで白鳥になり、最後に舞い降りた場所とされる。行基が神宮寺の勧学院神鳳寺をつくったが、明治の神仏分離で廃寺になり、明治4年に官幣大社になった。大社になれたのはヤマトタケル伝説のおかげだろうか。
埼玉県に長く住んでいたぼくには、なぜこの規模で「大社」なのか納得しにくい。武蔵一宮の氷川神社(さいたま市)は、埼玉と東京に200社以上の「氷川神社」があるのに「大社」ではない。明治の初年には明治天皇も行幸し、伊勢と同様「神宮」の地位を得ようとしていた。
氷川神社は、出雲大社の流れをくむ。出雲大社の神であるオオクニヌシは、アマテラスを奉じる伊勢と対称的な存在だった。原武史さんの「『出雲』という思想–近代日本の抹殺された神々」によると、本居宣長をはじめとする国学でも、出雲の位置づけをめぐって論争が交わされ、オオクニヌシの国ゆずりは、「伊勢」に対する単なる敗北ではなく、この世のことは天皇に任せるが、冥界のことはお任せをという意味だとする説がある。それに対して伊勢派は、オオクニヌシをアマテラスの下に位置づけようとする。明治になって、自由民権運動と同様に出雲派は危険視され、伊勢派に敗れた。出雲の敗北が氷川神社が大社になれなかった原因ではないかと、原さんは論じている。
古事記にカヌーが登場
鳳駅から駅前商店街のアーケードを抜け、県道を歩いて高石市に入る。「よそでは手に入りにくいお守り」という看板にひかれて脇道の等乃妓(とのき)神社に立ち寄った。樹木の形の絵馬やステッカー、コロナウイルス封じのお守りがならぶ。
でもそれよりも古事記の説明に目を奪われた。
仁徳天皇の時代、この近くにあった巨樹で船をつくると速度が速く「枯野(からぬ)」と呼ばれた。船が壊れて、それを焼いて塩を作り、焼け残りの木で琴をつくった……。
茂在寅男さんの「古代日本の航海術」によると、記紀にはポリネシア語などからの語彙があり、「枯野」もそのひとつらしい。「枯野」は日本書紀では「軽野」と書く。これはカヌーまたはカノーから来ているという。狩野川などは、カルノの造船地で、用材の切り出された山が「カノー山」と名づけられた。アマノイワフネのAMAはカヌーのアウトリガーを意味するという。
アウトリガーつきのカヌーは、マダガスカルから、ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア・インドネシア、北限は八丈島にまで分布していた。
カヌーという言葉は、コロンブス以後にカリブ海から西洋に伝わったとされるが、それよりはるか昔から太平洋のぐるりに共通する言葉だった可能性がある、と彼は主張していた。
「小栗」の意味するもの
熊野街道は「小栗街道」とも呼ばれる。
毒殺されて蘇生した小栗判官が餓鬼阿弥と呼ばれる不具の体となり、土車に載せられて熊野の湯の峰温泉にたどりつき、湯治によってもとの体に復活する、という物語にちなんでいる。
熊野街道は、不治の病とされた癩病(ハンセン病)の患者たちが熊野本宮で病気快癒を祈り、湯の峯温泉で治療するために歩いた道でもあった。餓鬼阿弥は、ハンセン病患者を象徴していた。
堺市から南では「小栗街道」という碑や標石をよく見かける。
和泉市の「篠田(信太)王子跡」の近くにある八坂神社の端っこに「南王子の高札場」という江戸時代にたてられた高札の小屋があり、近くに「小栗地蔵」や「小栗の湯」という250円で入れる銭湯があった。
旧南王子村(1943年から八坂町)は1960年に和泉市と合併するまで独立した自治体だった。大規模な被差別部落があり、差別問題を考える青年団運動を通して1923年に南王子水平社が創設された。昭和の市町村合併の際は、被差別部落をどの自治体の傘下に置くかを巡ってもめた歴史もあるらしい。
「小栗」の名は、今も昔も差別とそれに対する抵抗の歴史を象徴している。
4階建ての古びた市営住宅が何十棟もならぶ団地の公園に「平松王子」の石碑があった。
ちちあて
陸上自衛隊信太山駐屯地前から、昔の街道の雰囲気を残す旧道をたどる。「和泉」の地名の発祥になった「和泉清水」を祀る泉井上神社を経て県道に出た。川沿いのお地蔵さんのわきに「井の口王子跡」の碑が立っている。
岸和田市に入ると、「○○毛織」といった会社がめだつ。かつて綿花の産地だった泉州は繊維産業が発達した。
泉州といえば言葉のどぎつさでも有名だ。
知り合いの商社のOLは「泉州の繊維会社の社長にお茶を出したとき『ねえちゃん、ちちあてのひも、見えてんでぇ』と言われて驚いたわぁ」と言っていた。「チチアテ」とはブラジャーのことだ。
ぼくも関西の大学に入学してはじめて大阪で遊んだとき、「たまごボーロ」のことを「チチボーロ」と呼ぶのを聞いて面食らった。大学の友人の「あのねえちゃんチチでかいなぁ」という言葉にもその直接的な表現に驚いた。そのうち慣れたけど。
池田王子と浅宇川王子の跡は石碑もない。JR東貝塚駅近くからため池のほとりの小径を歩くと、「半田一里塚」という高さ4メートルほどの樹木に覆われた塚がある。
貝塚中央病院という古びた病院から裏手の丘にのぼる坂は、さだまさしの「無縁坂」を思わせる。
「運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど……」とうたいながら歩く。運が悪いことを嘆いてもしかたがない。どうせだれもが死ぬ運命なのだ。
「輝ける日々ーーそれが過ぎ去ったからといって泣くのではなく、それがあったことに、ほほえもう」
そう語ったビクトル・フランクルのようになれたら、どんな逆境でも人生は豊かになり得るんだろうな。
鳳駅から5時間でJR和泉橋本駅に着いた。こぢんまりしたかわいい駅だ。20キロちょっと歩いた。
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