戦争を知らないジイ様
「戦争を知らない子供たち」は1970年に大阪万博のコンサートで初めて歌われた。
~戦争を知らずに僕らは生まれた、戦争を知らずに僕らは育った~
当時18歳だった私は「戦争を知らないジイ様」になった。
父親は「南方へ行く途中に米軍の魚雷攻撃を受けて沈没し、隣で寝ていた兵隊は死んだ」「同級生の男は半分くらい戦死した」と言葉少なに話していた。父母の世代は「戦争の中で育った子供たち」だった。私たちは78年間も戦争を知らない。その間にも世界では戦争があり、今もウクライナなど各地で市民が犠牲になっている。しかし日本では78年間、戦争はなかった。子や孫もずっと戦争を知らない世代であってほしい。そのために私たちができることは、戦争や原爆のことを伝えていくことだろう。
2023年8月6日には、中国新聞労働組合が開いた「不戦の碑」碑前祭に帰省中の娘一家と参列した。娘が子どもだったころに連れて行ったことがあり、その娘の子である孫たちと一緒に参列できたことは感無量だった。
「不戦の碑」は原爆から40年目の1985年、平和公園から少し南の本川沿いに建立された。当時私も若手組合員として建立運動に関わった。碑には中国新聞の原爆犠牲者114人や、当時広島にあった新聞、通信社の社員合わせて133人の名前が刻んである。無念の死を強制された先輩たちを追悼し、戦争のためには二度とペンやカメラを持たず、輪転機を回さない誓いを込めた。
犠牲者の多くは、この場所で「国民義勇隊」として、建物疎開作業中に被爆した。国民義勇隊は、本土決戦に備えて召集令状がなくても動員できる軍事組織であり、職域や地域ごとに編成されていた。対象者は15歳以上60歳以下の男子と女子も17歳以上40歳以下、つまり働ける者は根こそぎ登録されていた。あの日には、約40人が動員され全員が死亡した。
孫たちに犠牲者の名前を刻んだ碑を見せながら「絶対に戦争はしてはいけんね」と話した。ひ孫たちにも同じことを話したい。私が話せなければ、子や孫たちが伝えてほしい。「戦争を知らない子供たち」でいられる幸せを。それは、多くの人の犠牲の上に作られていることを。