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赤いバラと「贈与」との関係
昨日とても面白い本を読みました。
「世界は贈与でできている」(近内悠太著)
という本です。
この本を読み進めるうちに、一昨日妻に送った赤いバラと
この本のテーマでもある「贈与」とが、なにかつながりがある
のではないかと思ったわけです。
1.お金では買えないもの
この本では、お金では買えないものおよびその移動のことを「贈与」と呼んでいます。これだけではなんのことだが、まったく分かりません。というか、ふつう贈与って、遺産相続とかにでてくる、あの贈与のことしかイメージできず、それって換金できるじゃね!となにか違和感を最初持ちました。ところが、
家族や友人、恋人など、僕らにとって大切な人との関係性もまたお金では買えないものです。
それは確かにそのとおり!
2.プレゼントの謎
続いてプレゼントについて、こう記されています。少し長いですが。。
「そもそも、どうして私たちは互いにプレゼントを贈り合うのでしょうか。ほしいものがあるなら各々が自分で買えばいいのに、なぜか私たちはプレゼントという慣習を持っています。
プレゼントという慣習の理由。
それは、誰かからプレゼントとして手渡された瞬間に、「モノ」がモノでなくなるからです。どういうことか。
親しい人から誕生日に腕時計をプレゼントされたとしましょう。その腕時計がどこかのお店で購入されたものならば、それ自体はただの「モノ」にすぎません。この世界にただ1つしかない特別な時計などはなく、他の誰でも対価さえ支払えば購入できる、交換可能な「商品」でしかありません。
ところが、その腕時計が「贈り物」として手渡された瞬間、事態は一変します。
え、え、どういうこと?続きます。
プレゼントされた時計も、自分で購入した時計も、モノとしては等価なはずなのに、僕らはどうしてもそうは思うことができません。そこには、モノとしての価値、つまり商品としての価値からはみ出す何かがあると無意識に感じるのです。商品価値、市場価値には回収できない「余剰」を帯びると言っていいかもしれません。
重要なのは、「その余剰分を自分自身では買うことができない」という点です。なぜなら、その余剰は誰かから贈られた瞬間に初めてこの世界に立ち現れるものだからです。
贈与とは、モノを「モノではないもの」へと変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。
3.つまり、赤いバラは贈与!
「私が、いつも感謝してもしきれない妻へ、感謝の気持ちを込めて、大輪の赤いバラを贈りました。」と一昨日書きました。
この「いつも感謝してもしきれない」、これこそが商品としての価値からはみ出す「余剰」なのではないか。
たしかに、お金では買えないなあと思ったのでした。
この本は、哲学的で、なかなか奥が深いです!でも面白い。
なので、続きます。お楽しみに!
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