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essay #4 凡庸

人は人をカテゴライズすることで安心するけれど、自分のことをカテゴライズされるのは喜ばしくないものだ、と本に書いてあった。

多くの人が「30代男性、独身、サッカー好きなどとカテゴライズは出来るけど、そうはいっても自分には人と違うこんなところがある」と思いたいものだそうだ。

確かにそうだな、と納得した。

高校生の頃は自分が凄く醜く、碌でもない人間だと頭の片隅で常に考えていて、きっと自分はうまくいかない、おそらく良い未来は来ないのだろうとネガティブイメージを持っていた。
親が離婚していることも、家庭で暴力を振るわれることも、死んだら楽だろうと思っていることも、そんなに珍しいことではないだろうと思っていた。

大学に入って親元を離れ、厳しくも優しく温かい人たちと出会ったら、今度は「自分の経験はもしかしたらいつか誰かの役に立つ貴重なものなのかもしれない」と思えた。
自分だからこそ出来ることや、自分にしか語れないもの、自分にしかつくれない未来があるのだと思い始めた。

そしていま、30代が近づいて改めて、自分はなんと平凡な人間なんだろうと思っている。
人と比べるものではないとこんなにも分かっているはずなのに、世の中には頑張っている人、苦しい境遇でも立ち向かってきた人、到底味わうことのない稀有な環境に生まれた人、そして自分とほぼ同じような人生を歩んできて、その人生をしっかり活かせていてかっこいい人が、かなりいることに気づいてしまった。

私も周りから見れば恐らく、簡単にカテゴライズできる「その辺にいる20代女性」のひとりだろう、と。
そして誰から見てもアイコニックな存在になるには、相当頑張らないといけないみたいだ。

ずっとではないにせよ、必要なタイミングで持てるエネルギーを底から出し切らないと、自分というものに対して、緩やかなマイナーチェンジしかできないらしい。

かっこいいなと思う人たちのなかで、あんまり頑張らずにその光を放っている人をまだ見たことがない。
マザーハウスの山口さんや、カヤックの柳澤さんや、レオスの藤野さん、同い年で起業した子や、芸能の世界にいる人たちも、多くの人がやらずにいる「絶対にやったほうがいい努力」を着実に積み重ねて、ひとつひとつに向き合って生きているように見える。
だからこそかっこいい。

ただ、私は誰から見たときにどんな人間になりたいんだろうな。とふと思う。

別に誰から雑なカテゴライズをされようと、一人として同じ人生を歩むことはないのだから、そこに目を向ければ良いと思うこともできるのに、いつかは何者かになりたい、唯一無二だと思ってもらいたいと、どこかで思っているのだから厄介だ。

思い描いたところでなれるかは分からないけれど、ディズニーランドがウォルトの頭の中と現実、2回形になっていると言われているように、まず思い描かなければ理想を形にすることはできないわけで。

私がなりたいひとってどんな風なのかイメージできたら、きっとカテゴリーを気にしない私だけの目標に向かって歩けるのだろうと思う。

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